義仲を捜す旅

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〜義仲上洛〜


●寿永2年(1183)7月、義仲は比叡山衆徒と同盟を結ぶ。
●同月27日、平氏一族は天皇、神器を奉じて都落ちする。
●翌28日、義仲、行家入京。後白河法皇は義仲らに平氏追討を命ず。

【左】比叡山より京都方面の眺め
当時比叡山延暦寺は僧兵という強大な軍事力を持っていたため、京に入るためにはまず 比叡山衆徒を味方につけておく必要があった。
行家と共に義仲軍に入った覚明はこの時、「木曽山門牒状」を比叡山に送り、源氏方に味方することを 約束させ大役を果たす。

〜比叡山延暦寺東塔〜

【左上】文殊楼  根本中堂の東側上部にあり、徒歩で麓から登ってくると、まずこの門をくぐる ことになる。
【中上】根本中堂  延暦寺には三塔(東塔、西塔、横川)にそれぞれ中心となる仏堂「中堂」があり、 東塔の「根本中堂」はその中で最大のもの。
【右上】大講堂  昭和39年(1964)に山麓坂本の讃仏堂を移築したもの。


〜蓮華王院〜

【左上】蓮華王院(三十三間堂)  ここは後白河上皇が院政を行った院政庁「法住寺殿」のあった一画になる。
【右上】法住寺殿址碑  蓮華王院境内に立つ。政治的な施設がある「北殿」と ”常の御所”とよぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿」 に分かれ、当時は広大な地域を占めていた。

『法住寺殿略図』

●8月14日、皇嗣問題が起こる。平氏と共に都落ちした安徳天皇が廃位され、義仲は 以仁王の子である北陸宮の即位を強く主張するが、同月20日、後白河法皇の意向によって高倉四の宮(後鳥羽天皇)が 即位。
●9月20日、義仲、法皇の命により平氏追討の為、西国へ向かう。
●10月13日、「十月の宣旨」が公布され、これによって東海東山両道が頼朝の支配下になる。
●閏10月、義仲軍は備中水島にて平氏軍と戦い大敗。同月15日義仲帰京。
●11月19日、義仲法住寺殿を襲撃、天台座主明雲殺され、法皇捕らえられる。


●寿永3年1月、義仲、征夷大将軍となる。
●同年1月20日、宇治、瀬田の戦い、義仲は粟津で戦死。

【左】琵琶湖 打出浜
20日、京の合戦で敗れた義仲は、幼馴染みの今井兼平を捜して瀬田へ行き、 鎌倉軍の重囲を破って近江の粟津まで落ち延びる。そして打出浜で二人は出会う。『平家物語』の 「木曽最後の事」は義仲と兼平の最後の奮戦によって終結する。
<場所>滋賀県大津市打出浜
<行き方>県道18号より なぎさ公園へ
<駐車場>付近有料駐車場利用
<撮影日>2005年9月


〜義仲寺〜

【左上】義仲寺  義仲終焉の地にあり、粟津ヶ原に「義仲塚」が里人によって建てられてから、 一僧がその傍らに庵を結び、「義仲庵」と号したのがその始まりといわれる。
【右上】義仲の墓  大津市のド真ん中にポツンと小さい寺があり、そこに墓がある。 木曽谷とは違ってイマイチ雰囲気は無いが・・・

【左上】巴塚  『源平盛衰記』で義仲と巴の会話が記される唯一の場面が、粟津での別れの場面である。
巴は戦場を離れ信濃へと落ちていく。その後の話は
倶利伽羅峠巴塚の欄に要約してあるが、 信憑性は薄い。しかし、覚明と共に巴によって各地に義仲の伝承が伝えられていったのは事実ではないだろうか。
【中上】山吹塚  山吹は義仲の妻とも妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に 逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり、自害したともとらわれたとも云われる。 その供養塚である。元大津駅前に在ったが、大津駅改築のためこの所に移された。〔現地解説板〕
山吹伝説は武蔵大蔵にも伝わっている。
【右上】松尾芭蕉の墓  芭蕉は晩年、義仲寺内に建てられた「無名庵」にしばしば逗留した。 芭蕉の遺言により、その亡骸は義仲寺に葬られた。
芭蕉は義仲という人間の魅力に惹かれた一人である。
<場所>滋賀県大津市馬場
<行き方>県道18号におの浜2信号南へ入る
<駐車場>1台
<撮影日>2005年9月


義仲の墓は義仲寺の他に木曽福島町 興禅寺、 日義村徳音寺にある。



横田河原合戦、倶利伽羅峠の合戦等をみてもわかるように、戦に関しては非常に優れた才能を持って いた義仲だが、政治的戦略に関しては頼朝や「大天狗」後白河法皇 には及ばなかった。
しかし、強大な独裁政権であった平氏勢力を京の都から追い出したことは、その後の頼朝による 鎌倉幕府設立までの道筋をつける突破口として、重要な役割を果たしたのではないか。

また、信濃から北陸にかけては、義仲ゆかりの地が残り、その伝承の多さには 驚く。それだけ人を惹きつける何かを持っていたのであろう。
それは幼少期から旗揚げするまでの木曽で過ごした時代、母、中原兼遠、今井兼平をはじめとした 人間関係の豊かさによって形成された彼の性格によるものであろうか・・・
【上】比叡山より粟津方面

今回はゆかりの地を取り上げる事に主眼を置いた為、政治的動きなどの詳しいところは省略しました。

<参考文献>畠山次郎『木曽義仲』銀河書房 1981年
田屋久男『木曽義仲』オフィスアングル 2005年
橋本芳雄「木曽義仲の上洛戦と北陸道」『越後地方史の研究』国書刊行会 1981年 
<参考サイト> 事象の地平 木曽義仲大研究




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