義仲を捜す旅1/4ページ![]() 木曽(源)義仲について、現在は平家物語からの情報が一般化されており、かなり誤解が多く、低い評価を 与えられてしまっている感がある。 それは平家物語の作者が義仲に「田舎者の猪武者」としての、キャラクターを与えた為と 思われるが、当時、京の人々が義仲に対してあまり良い感情を持っていなかったのも事実であろう。 しかし、当時の義仲を知ることのできる史料、九條兼実の 日記『玉葉』には、義仲の正当性を評価したり、同情する記述も見られる。 平家物語の作者が登場人物の中で一生を記した数少ない一人の内に義仲を取り上げたのも、魅力ある人物の 一人であったからかもしれない。 本当の義仲はどのような人物だったのか、どのような行動をして、どのように思われていたのか・・・ そんなことを考えつつ、義仲について少し勉強してみようと思い立ち、 今回は長野県内はもちろん、北陸にも伝承やゆかりの地が多く存在する義仲 関連の地をほんの僅かではありますが、巡ってきたのでここで紹介していきたいと思います。 〜義仲誕生〜●久寿元年(1154)義仲出生、幼名駒王丸。生まれた地は父である義賢の大蔵館があった 武蔵大蔵の地とするのが有力であるが、義賢の 本拠地 である上野国多胡庄(群馬県多野郡吉井町付近)とする説もある。 ![]() ![]() ![]() 【左上】鎌形八幡神社 大蔵館から西へ約1.5qの所にある。義賢、義仲、義高の三代にまつわる 伝承がこの付近に残る。 【中上】木曽義仲産湯の清水 八幡社境内にある。この付近に義賢は下屋敷を設け、小枝御前を 住まわせ、生まれたのが駒王丸であったという。〔班溪寺案内板〕 【右上】班溪寺 正面に「木曽義仲公誕生之地」と大きな石碑、境内には顕彰碑も建つ。 義仲の長男義高の為に母の妙虎大姉(山吹姫)が菩提を弔って、この寺を建てた。山吹姫は木曽育ちの娘で、 義仲の室として幾度かの合戦に従軍し、「建久元年(1190)11月22日にここに寂す。」〔班溪寺案内板〕
●久寿2年8月 義仲の父、義賢が武蔵大蔵にて甥の源義平に討たれる。 駒王丸は木曽へ逃れ、中原兼遠の許で養育される。 義賢は勢力を南方へと拡大していたが、それに対して義朝、義平父子は鎌倉から北方へと勢力を 拡大していた。お互いの勢力がぶつかる境界となったのが、大蔵の地であった。 武州街道筋の大影城には、落ちのびる 途中に義仲がここに立ち寄ったという伝承が残る。 ・・・その後、約25年義仲は史料上に現れなくなる。 ![]() ![]() ![]() 【左上・中上】中原兼遠屋敷跡 義仲はこの地で兼遠の子達と育った。兼遠についての詳細はわからない。 『平家物語』の読み本系では兼遠を「中三権頭」としていることから信濃在庁官人とする説、東山道の運輸に 関わる業務に携わっていたとする説〔畠山ー1981〕などがある。 遺構は残っておらず、木曽川と小沢川の合流地点の要害地形にあったことだけはわかる。 【右上】手習天神 古くは山下天神とよび、兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられている。 〔案内板より〕
![]() ![]() ![]() 【左上・中上】義仲館跡 兼遠屋敷から中山道沿い北東約5qに位置する。『岐蘇古今沿革志』では 駒王丸13歳の時、元服と共に新居館をここに構え、移り住んだとされている。 背後の山頂に山吹城というのろし台跡がある。 【右上】館より南西方面 館西側に木曽川が流れており、段丘崖となっている。そのため兼遠 屋敷のある南西方面の見晴らしが良い。 駒王丸の伝承地として、諏訪大社下社大祝金刺盛澄の居城、 桜城に「駒王坂」というのがあり、 武蔵から木曽へ逃れる途中に匿われたという伝説がある。金刺盛澄と下社秋宮脇、 霞ヶ城 を居城とした弟手塚太郎は、義仲に従軍したといわれる。 また、『諏訪大明神画詞』では盛澄は義仲を婿にとり、娘は女子を一人出生したという。 ●治承4年(1180)4月、京にて源頼政、以仁王を奉じて挙兵するが、宇治にて敗死。 新宮(源)行家(義仲、頼朝の叔父)、以仁王の令旨を携えて、諸国の源氏にふれ回る。 同年8月、源頼朝が伊豆に挙兵するが、石橋山にて敗れる。 翌9月、義仲が挙兵。 ![]() ![]() 【左上・中上】旗挙八幡宮 館内部にある。義仲はここに居館を構えたときに八幡宮を祭った。 治承4年、以仁王の令旨によりここで平氏追討の旗挙げをした。以後旗挙八幡宮とよばれている。 社殿脇の大欅は樹齢約800年といわれ、義仲の元服を祝って植栽されたものといわれている。 〔案内板より〕 ![]() ![]() ![]() 【左上】巴淵 この淵に棲む龍神が巴に化身して義仲を守り、義勇を助けたという。 巴については『源平盛衰記』から伝説が一人歩きしてしまっている。義仲の妻、 義高の母、今井兼平の妹という通説は、史実としてはきわめて怪しい。『盛衰記』を含め『平家物語』 にしか登場しない巴であるが、伝説は各地にあり、それだけ印象が深い人物ということだろう。 【中上】南宮神社手洗水 巴淵の脇に清水が湧き出ており、義仲が産土南宮神社を拝するときの 手洗水としたといわれ、今も石舟が残る。 ここから徳音寺を経て宮ノ腰宿に至る道は旧中山道との事。〔案内板より〕 【右上】南宮神社 義仲が宮ノ腰に館を構えた時、美濃関ヶ原の南宮大社を分祠勧進したものと いわれ、義仲の戦勝祈願所となったという。〔案内板より〕
●義仲軍は兵を集めながら中信、北信へと向かう。 いよいよ義仲は歴史の表舞台に再び現れることになる。その時、義仲26歳。 木曽谷を抜ける鳥居峠には 御獄山遙拝所 がある。ここで義仲は戦勝祈願の願書をしたためさせて御獄山 へ奉納した。その時の硯の水と言い伝えられている湧き水がある。
〜徳音寺〜 ![]() ![]() ![]() 【左上】山門 仁安3年(1168)義仲が母小枝御前の菩提所と平家追討の祈願所として建立した 柏原寺が前身である。義仲討死後、覚明上人が義仲法名により寺名を徳音寺と改め、義仲の菩提寺と したという。 【中上】義仲の墓 【右上】小枝御前、今井兼平、巴御前、樋口兼光の墓が義仲の墓の下に並ぶ。
義仲の墓はこの他に、隣町の木曽福島町 興禅寺、 滋賀県大津市義仲寺にある。 〜林昌寺〜 ![]() ![]() ![]() 【左上】林昌寺山門 【中上】兼遠の墓 【右上】墓より林昌寺、木曽谷の眺め 林昌寺は中原兼遠開基で、菩提寺でもある。 『盛衰記』では義仲が旗挙げ後、平家は兼遠を京に呼び出して詰問したことを記している。 兼遠は義仲をからめ取ることを起請文に書かされた為、義仲の後事を佐久の有力者根井行親に 託した。 行親の館が佐久に残る。
〜石清水八幡宮〜 『石清水八幡宮付近図』![]() ![]() ![]() 京都の南のはずれにある石清水八幡で義仲は元服したという。 ![]() ![]() ![]() 男山の一帯に宿坊跡が残り城郭の雰囲気があるが、中世にはこの付近は戦場になったため、 当然その機能も備えていたのであろう。 麓から山頂まで徒歩で約20分、石段を登るのは結構疲れる・・・
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