義仲を捜す旅

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〜横田河原の戦い〜

●治承4年(1180)10月、頼朝再起、6日鎌倉へ入る。
●同月13日、義仲、亡父義賢の根拠地、上野国多胡庄に入る。

義仲にとって兵を集める事がまず第一にやらなければならない事であった。そのためにも 多胡館を根拠地としていた父義賢の人脈を 頼って行ったのであろう。さらに義仲自身もここを根拠地としようとしたのかもしれない。


●同年12月24日、義仲は信濃へ引き上げる。
●翌年、治承5年1月頃、中原兼遠は義仲の後ろ盾を佐久の根井行親に「授け」、行親は「請取る」。 〔平家物語〕
そして、東信濃の要衝にある 依田城を拠点とする。

2ヶ月足らずで多胡庄から信濃へ戻ってきたのであるが、『吾妻鏡』では頼朝の力が北上し、上野国まで 及んできた為としている。『平家物語』では義賢の縁で皆が従って来たためとする。
だが、この頃には越後平氏である城氏が信濃へ進攻してくるという話が耳に入ってきたかもしれない。
信濃の諸豪族にとっては一大事である。それによって急遽戻った可能性もある。
【上】依田城  依田城の東麓にある宝蔵寺は義仲が戦勝祈願を行った寺といわれる。
そして、義仲が馬で登った道が「義仲馬大門」と呼ばれ、手植えの桜が「義仲桜」として現在まで伝わっている。〔現地解説板〕

根井行親は佐久地方一帯に勢力を持っていたと思われ、兼遠は義仲擁立者としてその力を頼ったので あろう。行親は信濃武士を組織し、その子楯六郎親忠と共に最後まで従軍する。
根井氏館楯氏館今井城

●同年5月、平氏一族で越後一帯を支配していた城助職、信濃進攻軍を召集。
●翌6月13,14日、横田河原合戦、義仲が城氏軍を破る。


【左上】白鳥河原  城氏軍を迎え撃つ為、義仲は東信の大豪族海野氏の根拠地である、海野郷白鳥 河原に兵を集めた。
【中上】白鳥神社  白鳥河原の正面、海野宿の東入口に位置する。海野氏の氏神であり、海野氏滅亡後は 海野宿や近郷の産土神として信仰されてきた。
【右上】海野宿  旧北国街道の宿場で、寛永2年(1625)に開設された。現在も江戸期の建物が 残る。
<場所>長野県東御市本海野
<行き方>国道18号より海野宿方面へ
<駐車場>海野宿有料駐車場利用
<撮影日>2005年9月


【左上・中上】武水別神社  八幡三神が祀られているため『平家物語』にも、この八幡社は登場する。
【右上】献納滝壺の石  神社境内にあり、義仲が戦勝祈願した時、祈願文を奉持した使者が この石に湛えられていた雨水で、具足の汚れを洗い清めてから神前に額ずいたと伝えられている。〔現地解説板〕
<場所>長野県千曲市八幡
<行き方>県道77号沿い
<駐車場>南、東側に駐車場有り約10台
<撮影日>2005年9月


戦いのあった横田河原は後の時代、 川中島の戦い があった場所とほぼ同じ場所であり、雨宮の渡し付近で義仲軍も渡河したであろう。
また、すぐ北にある横田城は 義仲が拠点として使用したといわれ、子孫の方が供養塔を建てている。

戦いの詳細は『平家物語』に書かれているが、矛盾や他の史料との違いもある。
『玉葉』では「6月13,14日城氏軍4万騎、義仲軍3千余騎を三手に分けた。義仲勢は長旅に 疲れている城氏軍に対して俄にときの声をあげて襲いかかったところ、敵は一矢も射ることができず 敗れ、僅かに300人が越後に逃げ帰った」と書かれ、この情報は越後の知行人藤原光隆、兼光を経由して この日記を書いた九條兼実に伝えられた。

●寿永元年(1182)秋頃、頼朝の待遇に不満を持った新宮行家は義仲の許へ走る。
●寿永2年3月、頼朝は義仲が行家を匿ったと考え、「義仲謀反の企て有り」として大軍を 追討の為、信濃へ進める。
しかし、義仲と頼朝との和議が成り、義仲は長子義高を頼朝に人質として差し出す。〔平家物語〕
義仲は源氏同士の危機を自分の譲歩によって回避した。

横田河原の戦いにおいて巨大な勢力を誇っていた城氏を滅ぼしたことにより、越後だけではなく 周辺域の北陸方面までもが騒然となった。これによってイッキに義仲勢力は北陸方面まで手を広げることが できた。


<参考文献>畠山次郎『木曽義仲』銀河書房 1981年
田屋久男『木曽義仲』オフィスアングル 2005年
日義村誌編纂委員会編『日義村誌 歴史編上巻』1998年
九條兼実(原著)高橋貞一『訓読玉葉』高科書店 1988〜90年
北原保雄、小川栄一編『延慶本平家物語』勉誠社 1990年
杉本圭三郎訳注『平家物語』講談社 1995年
<参考サイト> 事象の地平 木曽義仲大研究




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