深沢城
ふかざわじょう

《別名》 神梅城・阿久沢城・城宿廻桐生市黒保根町宿廻



―史料からみた深沢城と阿久沢氏―

康平6年(1063)、源義家に降った安倍宗任が京都に送られる時、旧主を慕って蝦夷730人がここまで来たが、義家は阿久沢・松島ら90人だけを京都と奥羽との連絡という名目で黒川(渡良瀬川上流域)山中に残し、他を帰国させたと伝えられる(『上陽大平老談記』〈田沢 松本氏所蔵〉)。
そのほかにも、播磨国桃井氏の末葉で関東へ下り、阿久沢と改め深沢に居住したとする説(阿久沢氏系譜「先祖書之事」〈目黒氏所蔵〉)、先祖は桃井氏の庶流で、加賀国津々井の里愛久沢の村に住していたことから、その地名を家号として、後に阿久沢と改めたという説(『寛政重修諸家譜』)などがある。

永禄3年(1560)上杉謙信が初めて関東へ越山した際、自身のもとに参陣してきた関東諸将の名前と幕紋を「衆」ごとに書き記した「関東幕注文」を作成した。その中で「桐生衆」に所属する者として「阿久沢対馬守」がみえる。
阿久沢氏は深沢城を本拠として、渡良瀬川上流域とその山間部を押さえていたことから、木材や燃料の生産地である地域とその流通ルートとなる河川を確保していたといえる。そのため、上杉氏と由良氏・小田原北条氏との間に挟まれながらも自立性を備える領主だった。
また、同氏は沼田から赤城山東側山麓を通り、深沢を経て関東平野に抜ける「根利通」(現在の県道62号に近いルートと想定される)に対して交通権益を持っていたため、永禄10年(1567)に上杉氏が根利(沼田市利根町)に関所を設けた際、上杉氏側へ抗議している。
天正2、3年(1574、75)には上杉氏と対立していた由良氏・北条氏との間で、黒川谷が戦闘地域となっており、上杉軍が当城に駐留していた。
天正7年(1579)、上杉謙信亡き後の景勝・景虎による跡目相続の争い(御館の乱)が景勝方の勝利によって終結すると、北条氏が東上野地域を勢力下におさめたため、阿久沢氏の所領の大部分は北条方であった由良氏のものとなった。 しかし、天正11年(1583)末、由良氏とその同族館林長尾氏が北条氏に反旗を翻すと、阿久沢氏はすぐさま北条方につき五覧田城を攻略するなど活躍し、自立性を回復した。
その後、天正18年(1590)豊臣秀吉により北条氏が滅亡した際、廃城となり、阿久沢氏は帰農した。

【上】主郭
約40×55mの方形で、三方を大規模な堀で囲んでいる。現在、郭内部は耕作地となっているため整地されているが、北西角の八幡社の石祠がある部分は一段高くなっている。『城郭大系』では櫓台としているが、土塁が廻らされていた形跡とも考えられる。

深沢城現況図(現地案内板)

【左上】主郭東側の堀
深沢城は南に張り出した舌状台地の先端部分に位置し、その東西両サイドは渡良瀬川に流入する深沢川と川口川の深く落ち込んだ沢となっており、天然の要害を成している。
東側の堀は先端斜面に向かって下っているため、主郭の切岸は次第に高くなっていく。この構造は「登城」方面から登ってきた場合、東側堀を通って主郭・「二の丸」へ行く堀底道として利用していたためといえるが、堀は後世にかなり埋められている可能性もあることから、当時も同様な構造になっていたのか一考を要する。

【右上】主郭南東角下部
左上の堀を南へ下ってきたところ。「登城」方面から主郭へ登ってくると、ここへ出ることになる。主郭を囲む堀の西側下り斜面の部分は腰郭状になっている。

【左上】正円寺
「二の丸」の中にある天台宗の寺。現地案内板によると、はじめ当城から東方300mの「塔ノ越」に所在したが、廃城となった際ここに移されたという。

【右上】阿久沢氏累代の墓
「「宗無居士」とあるのが資料的にも実在の確証ができる七代能登守直崇の墓であって、寛永14年(1637)6月20日に歿している。」「累代16基の墓碑は16代直内で終わっている。」(現地案内板〈黒保根村教育委員会〉)
正円寺西側の墓地内にある。古い五輪塔や宝篋印塔も確認できる。


【左】根利の集落
県道62号を桐生市から沼田市へ入ったところに位置する。永禄10年、上杉謙信によって根利に関所が設けられたことが史料上で確認できる。しかし、その場所は特定されていない。

永禄9年、上杉氏の拠点だった厩橋城(前橋市)の城将北条(きたじょう)高広が小田原北条氏へ寝返ったため、上杉軍は赤城山西側山麓を通って、関東平野へ抜ける道が使えなくなってしまった。そのため「根利通」を整備して、最前線の拠点であった佐野城へ行く道を確保した。
根利において深沢城経由や五覧田城経由など関東平野へ抜ける道が分岐している。
―感想―

主郭を囲む堀は大規模なもので見応えがあるものだが、台地先端部へ向かって下っている立地のため、主郭が「二の丸」よりも低い位置となっている。したがって、主郭部分に土塁が廻らされていないのは不自然である。後世に耕地化した際、堀の部分も含めてかなり改変された可能性が高い。
また、天正2年には、阿久沢氏の動向が不審であったことから、謙信はここに上杉軍を駐留させている。「二の丸」の外側にも堀が廻らされていた形跡が確認できるため、当時の城域はかなり広かったことが想定できる。



行き方 国道122号を足尾方面へ、わたらせ渓谷鉄道本宿駅を過ぎてすぐ左折し県道335号へ入る。約1q先正円寺方面へ右折。
駐車場正円寺前に数台分駐車スペースあり
撮影日2012年7月
更新日2015年10月18日
参考文献 『日本城郭大系』4
『黒保根村誌』本編一(黒保根村、1997年)
高橋浩昭「東上野の地域権力と後北条氏」(『ぐんま史料研究』6、1996年)
黒田基樹「桐生佐野氏と阿久沢氏の研究」(同著『戦国大名と外様国衆』戎光祥出版、2015年、初出1997年)
齋藤慎一『中世を道から読む』(講談社、2010年)
大貫茂紀「戦国期「境目」地域の成立と維持―東上野地域と阿久沢氏を中心に―」(『日本歴史』795号、2014年)
参考サイト群馬県赤城山ポータルサイト 深沢城」 「城郭放浪記」 「余湖くんのホームページ
古城の丘にたちて 黒川郷士と渡良瀬川沿岸地域