後閑城
ごかんじょう

安中市後閑



―史料からみた後閑城と後閑氏―

嘉吉・文安(1441〜1449)の頃、信州佐久郡から移ってきた依田内匠頭忠政の築城と伝える。天文7年(1538)依田光慶が鷹巣城(板鼻城)に移った後に、北条政時が一時在城したが、永禄3年(1560)、政時は丹生城主であった新田景純との戦いに敗れ、その後、新田氏が後閑城に移った。
新田氏は姓を後閑に改め、景純の子信純の頃、永禄8年(1965)10月19日以前に安中氏を通じて武田信玄に従った。永禄10年(1567)6月27日に信純は信玄から後閑の地を与えられ、軍役をつとめるように命じられた。
信純の長子信重は総社に分家して石倉城を守り下野守と称した。信純が天正6年(1578)に死去すると、次子重政が後閑、三子信久が上条家を継いだ。
武田勝頼滅亡後、下野守信重は厩橋の北条(きたじょう)高広に従い、後閑重政・信久兄弟は小田原北条氏に属した。信久も後閑の氏に戻り、以後、両後閑と呼ばれた。 天正12年(1584)、北条高広が小田原北条氏に降って大胡に移った時、当主北条氏直は両後閑に厩橋在番を命じた。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、両後閑は小田原に籠城し、総社の後閑又右衛門は松井田城の大道寺政繁の指揮下に入り、北条氏没落と共に後閑城も廃された。

【上】後閑城主郭より妙義山方面
安中・松井田両城の中間に位置し、後閑川東側に北から突出した尾根の末端に築かれている。
城址公園整備に伴い、1991年〜93年に一部であるが発掘調査が実施されている。 現在、城域は公園として整備されており、主要な部分は散歩気分で見ることができる。

【左上】主郭内部
主郭は北半分が40〜50cm低く、二段構造となっている。現在、数多くの庚申塔が建っている。 現地案内板によると、「寛政9年(1797)より同12年まで3年余りをかけて造られたもので、旧後閑城の家臣と称する上原、安藤、中島氏等が発起人となり、安中藩家臣や近隣の人々に働きかけて有志を募り、旧後閑城本丸跡に建てた。庚申塔の総数128基。以後、毎年4月、歴代の城主および戦死者の供養を兼ねて村人がお祭りを続けている。」ということである。

【右上】主郭より西郭群
主郭から西側には三つの郭が階段状に配置されている。一番下の「西第三郭」は現在駐車場として利用されている。

【左上】二の郭櫓台に立つ見晴らし台
主郭から南東にのびる尾根に二の郭は位置し、主郭との間に大規模な堀切がある。その堀切に面して櫓台があったと思われる高台がある。この部分は発掘調査が行なわれ、掘立柱建物遺構が確認されている。

【右上】北第一堀切
北方の尾根上からの侵入を阻むように大規模な堀切が3条あり、主郭の北側直下にあるのが第一堀切。緩やかな西側斜面を竪堀状に下っていく。


【左】北第二堀切
第一堀切から郭を挟んで北側にあるのが第二堀切。竪堀状に下っている西側斜面の堀切間には階段状に郭が連なっている。

―感想―

尾根先端部に立地しているが、主郭を中心に支尾根が四方にのびているため、尾根上に郭を緻密に連ねている。特に尾根続きである北方は大規模な3条の堀切・竪堀とその間にある階段状の郭によって、入念に防御の普請を施している。
この構造は信濃の山城、とりわけ武田氏が関与したものによく見られるもので、後閑城も武田氏が関与した可能性が高い。



行き方 県道41号、西平井交差点を南へ約800m、左側。
駐車場公園内に大駐車場あり
撮影日2011年9月
更新日2015年10月17日
参考文献 『日本城郭大系』4
『藤岡市史』資料編 原始・古代・中世
参考サイト城と古戦場」 「埋もれた古城」 「余湖くんのホームページ