五覧田城
 ごらんだじょう

《別名》 五乱田城みどり市東町荻原



―史料からみた五覧田城―

当城の築城年代は不明である。史料上の初出は天正2年(1574)3月13日付の上杉謙信書状である。その内容は上杉軍が深沢城を攻めたところ阿久沢兄弟が出仕してきたこと、そして五覧田城は今日落城したということが書かれている。
しかし、翌天正3年9月、上杉氏と敵対していた新田由良氏の軍勢が黒川谷へ攻め入った。由良氏から古河公方足利義氏に届いた書状には、同月5日に数か所の城を落城させ、8日には「五覧田根小屋」において、沼田衆を三百人余り討取ったと書かれている。
天正7年(1579)、上杉謙信亡き後の景勝・景虎による跡目相続の争い(御館の乱)が景勝方の勝利によって終結すると、北条氏は東上野地域を勢力下におさめ、黒川谷一帯を由良氏に宛行っており、五覧田城もその中に含まれていた。
しかし、天正11年(1583)末、由良氏とその同族館林長尾氏が北条氏に反旗を翻すと、阿久沢氏はすぐさま北条方につき、翌天正12年5月28日付北条氏朱印状では、由良方の籠る五覧田城を攻略するために、先立って阿久沢彦二郎に所領宛行の約諾をしている。
同年7月3日、阿久沢氏は五覧田城を攻略し、北条氏当主氏直から「腹巻」「甲」「刀」を褒美としてもらっている。また、氏直の叔父である北条氏照からは、占領した五覧田城の普請を急ぎ、防備を固めるよう指示を受けている。
以後、史料上には登場しないが、沼田から赤城山東山麓を通って関東へ出る道の要所であったため、北条氏の滅亡する天正18年までは存続していたと考えられる。

【上】東側麓から五覧田城方面
五覧田城への登城口は3カ所あるが、一番主郭の近くまで車で行けるのが「戸屋沢橋登山口」の案内板からさらに約1.2キロ先の駐車場。城の東側尾根を登っていくこととなる。

五覧田城要図(現地案内板)

【左上】城域東尾根最下部の郭
東側尾根を登っていくと現われる郭。尾根上にしてはかなり広い。

【右上】渡良瀬川方面の眺め
五覧田城は渡良瀬川沿いに下野国足尾に抜ける道と沼田方面へ抜ける道との分岐点に位置する。

【左上】主郭
『城郭大系』によると主郭は60×20mとあるが、薮のため全体の見通しが利かない。

【右上】西側尾根の郭
西側尾根を下りると「関守口」に至る。現地案内板によると南麓の関守には50mの崖上に方110mの単郭の遺構があり、ここに関所が設けられ、この関所を防備する城として五覧田城が築かれたとしている。
単郭の遺構は未確認。関所の話の典拠は不明。

―感想―

季節的なものもあって薮がひどく、全体の遺構を確認することが困難な状況だった。三方の尾根を堀切って郭を連ねた構造である。渡良瀬川を一望できる場所であり、南麓には関守という地名があることから街道と密接に関わっていたことが窺われる。



行き方 国道122号を足尾方面へ、桐生市消防署黒保根東分署の約130m手前、鋭角に左折し案内板にしたがって各登山口へ。
駐車場「戸屋沢橋登山口」の案内板からさらに約1.2キロ先、大駐車場あり
撮影日2012年7月
更新日2015年10月25日
参考文献 『日本城郭大系』4
『黒保根村誌』本編一(黒保根村、1997年)
黒田基樹「桐生佐野氏と阿久沢氏の研究」(同著『戦国大名と外様国衆』戎光祥出版、2015年、初出1997年)
齋藤慎一『中世を道から読む』(講談社、2010年)
大貫茂紀「戦国期「境目」地域の成立と維持―東上野地域と阿久沢氏を中心に―」(『日本歴史』795号、2014年)
参考サイト群馬県赤城山ポータルサイト 五覧田城」 「城郭放浪記」 「北緯36度付近の中世城郭
余湖くんのホームページ」 「古城の丘にたちて 黒川郷士と渡良瀬川沿岸地域