保渡田城

ほどたじょう




箕輪城の南東約3qの位置にある 保渡田城は武田信玄の家臣である内藤昌豊が永禄9年(1566) 箕輪城代となってすぐに築城、こちらに在城して西上野の経営をしていたという。
昌豊が長篠・設楽原の戦い で討死した後は子の内藤昌月(まさあき)へと代わり、武田氏滅亡後は 信長の家臣として上野に入った滝川一益の配下となる。本能寺の変の後、北条氏に付いたというが、 定かなところはわからない。
<場所>群馬郡群馬町保渡田
<行き方>県道123号保渡田バス停
(はにわの里公園北側)を西へ
約500m先左カーブ手前を右折
約100m先右側保渡田北部公会堂の付近
<駐車場>公会堂前の広場拝借
<撮影日>2004年6月
<参考文献>『日本城郭大系』4

【上】公会堂(公民館)前にある櫓台(天守塚)  元々保渡田城は 館のようなもので、方形の主郭が中心にあり、渦郭式に築かれたようで堀が「の」の字を 描くように二周ほどめぐっていた。
現在は宅地のど真ん中になってしまい、わずかに残る遺構の部分がこの塚である。ここが大手口にあたる。 そして手前の広場がある公会堂の敷地が主郭となるようだ。

【左上】櫓台  この塚の上は現在百庚申といわれるように、庚申の石碑がたくさん集められている。
【中上】櫓台より北側  この公会堂の部分が主郭にあたる。館としてもかなり小さい印象を受ける。
【右上】櫓台より北東側  公会堂の東側は空き地。その先には水路があり(藪の部分)堀状になっている。 この部分は主郭の東側境界ではないだろうか。

【左上】櫓台より東側  ここも耕作地にはなっているが主郭と堀跡との境界が推察できる。
【中上】東側より櫓台  腰巻き状に石垣があるが、当時のものかは不明。
【右上】南側より櫓台  城下町が南側に形成されていたという。この道をもう少し南に進むと クランク状になっており、大手口があったと思わせる。

【左上】東谷川  城域の東隅を南北に流れていて、この流れが城域の東側堀の役割をしていたのだろう。
【中上】公会堂北側  北方面へと耕作地が続くがこれは堀跡と思われる。城域北側には 北城という地名があり、現在昔からの民家がいくつか並んでいる。北へ向かってやや高い土地になっている。
【右上】北側堀跡か  その昔からの民家の裏(北側)へ回るとこのやや窪んだ地形が東西に 通っている。藪のため見通しは利かないが公会堂北側にある堀は東へ折れて、ここまで来ていると 思われる。

城域全体を想像すると南北300m、東西150m程はあったと思われるが、内藤昌豊が 箕輪城ではなく、ここに新城を築いた理由は何だったのか・・・長野氏のイメージを払拭するため だったのか・・・


〜内藤塚〜


内藤昌豊は西上野の経営をはじめた時、戦災で焼失した善龍寺を再建させた。
昌豊が長篠・設楽原の戦いで討死した後、その子昌月は父の遺骸を奉じ善龍寺に葬った。 天正16年昌月も逝去し昌豊の側に葬られた。
後世これを内藤塚または開基塚と呼び伝えた。
<場所>群馬郡箕郷町生原
<行き方>県道28号上芝東信号を東へ
約1q先左側道の脇に有り
<駐車場>無し 善龍寺脇路駐
<撮影日>2004年6月


【左上】内藤塚  左が昌月、右が昌豊の墓
【右上】善龍寺  現在の寺は内藤塚より100mくらい道の奥にある。 昔はもっと寺域が広かったのか、塚だけポツンと道の脇にある。
箕輪城から南東へ2q、保渡田城から北西へ1q程の所。


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