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![]() その中では、応永12年(1405)、山内上杉氏幕下だった斎藤憲行が築城、永禄6年(1563)武田信玄が上州攻略の為、真田幸隆に岩櫃城攻略を命じ、難攻不落の岩櫃城は幸隆の策略によって落城した。幸隆は吾妻郡代となり、幸隆死後は岩櫃城主に嫡子信綱が収まった、と語られている。 天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いにおいて、真田信綱、昌輝兄弟が戦死したため、三男の昌幸が真田家を相続し、信濃上田城、 上野岩櫃城、沼田城 の三城を持つに至った。 岩櫃城は上田―沼田間の基軸となっていた。 その後、昌幸の嫡子信之が城主となった。天正18年(1590)、北条氏の滅亡により、信之は沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城となった。 江戸時代に入ると徳川家康の一国一城令により破脚された。 【上】岩櫃城南側 吾妻川対岸より岩櫃山 岩櫃城は岩櫃山の東麓にある本城を中心として周辺地域一帯を城域とする広大なものである。
本城、天狗の丸、平沢の根小屋方面の道が集まる場所で、ここが大手虎口となる。背後の山が岩櫃山。本城は左の道を登って行く。 【右上】中城 城の口から登ってくるとまずここの広い郭に出る。二の丸の東側下を守っている郭で三の丸にあたる。現在は写真のような藪で奥の方は整備された林。
中城の南隅にこの竪堀が二の丸から続いてきており、かなり下方へと続いている。現在はここに階段が付いて二の丸までの登山道となっている。 【右上】二の丸下 奥に見えるのが二の丸の切岸。登ってきた竪堀はここから「折れ」をもって、二の丸下の横堀へとつながる。
二の丸の東下に出てくると、横堀が東側から南側本丸下までめぐっている。 【右上】二の丸より吾妻町一帯 すぐ下に見える畑、その奥の林が天狗の丸。
城の大手前にある出丸。その背後の山は観音山で柳沢城という支城があり、この地域一帯をかためている。 【右上】二の丸南側の横堀 奥の林の手前には竪堀があり、そこに接続されている。この本丸、二の丸南側一帯には横堀、竪堀が張りめぐらされており、規模も大きく見どころの一つである。
本丸の東側に位置し、竪堀はこの二の丸下の横堀から放射状に延びている。出撃の際には この竪堀を通路として利用したのであろう。写真奥が本丸の切岸。 【右上】本丸 本丸北東隅が一段高くなっており、櫓、居館があったという。
根小屋であった平沢の集落が見える。 【右上】北東方面 この方面一帯も城域と考えられており、岩櫃山からの沢を利用した水郭や400m程もある空堀を西南から東北の方向をとって6条造られているとの事。
居館から本丸北西隅にある桝形へと土塁が続いている。土塁の左下の部分が本丸内部で、東西約160m、南北約70mとかなりの広さを持つ。 【右上】本丸南側 右の切岸上が居館、櫓があった所。ここの南側下に帯郭があり、その下に横堀がある。
本丸西側は崖となって岩櫃山への登山道が続いており、東へ横堀が続いている。右上写真は竪堀へ接続する直前の部分。
最大の竪堀で本丸・二の丸の間から横堀を接続していきながら南下していく。上部は階段状になっており規模の大きさはかなりのもの。 【右上】海野屋敷 二の丸の南麓にあり、現在は耕作地になっている。左の竪堀はここの西隅を通ってさらに下へと続く。
山城としてはかなり大きい桝形が残っている。 【右上】木戸跡 桝形から少し谷筋の道を降りた所にある。
さらに谷筋を降りてくると段郭が確認できる。その付近が水郭と呼ばれており、北側に沢が流れている。この谷筋を降りていくと城の口へと出る。 【右上】水郭北側の沢
反対側は志摩小屋とよばれており、こちらも段郭状になっている。 【右上】志摩小屋の段郭 植林が進んでいるようで、どこまでが当時の遺構かはわからないが、大規模な段郭群となっている。 ![]() 竪堀状になっており、南側の沢とこの堀で防御された形になっている。 かなりの大きさで上幅は15m、深さ8mはあるだろう。長さは実測できなかったが、約400mはあるという。 このような堀がまだ北に何条かあるのである。防御の為もあろうが、大規模な移動を目的とした通路として活用されたのか・・・今一つ目的がピンと来ないが。
名前の示す通り情報、謀略と隠密活動を行う天狗山伏(修験者)の拠点だったという。真田の草の者の拠点か・・・ この岩櫃城は城郭の規模が上州最大を誇り、 甲斐の岩殿城、 駿河の久能山城と共に 武田三名城と称された。
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