国峯城

くにみねじょう




国峯城は関東管領山内上杉氏の重鎮、小幡氏の居城であった。天文20年(1551)上杉憲政が 越後に逃れた後、同22年小幡憲重、信実父子は武田信玄に属した。
箕輪城主、長野業政が 小幡父子の留守に乗じて国峯城を奪取、一族の小幡景定を国峯に据えた。
永禄4年(1561)信玄は国峯城を奪還し信実を復帰させ、以後国峯城は西上野経略拠点となった。 そして同9年には箕輪城を陥れ、内藤昌豊が入って西上野を統括する。それによって信実は 従来の立場から開放され、小幡伝統の赤備え騎馬軍団を率いて武田軍団の中核となって活躍した。
信玄没後信実は信真と改め、天正10年(1582)武田氏滅亡後、織田信長配下である 滝川一益配下となり信貞と改め、さらに北条氏に属して信定と改めた。
同18年秀吉の小田原攻めに信定は小田原に籠城、留守の国峯城は前田利家率いる北陸軍によって 落城した。

<場所>甘楽郡甘楽町国峯
<行き方>県道193号善慶寺原信号
南へ
長善寺前を左折し約1.2q
城山入口案内杭を左折し
林道を約1q
国峯城御殿平から徒歩
<駐車場>御殿平 5台
<撮影日>2004年6月
参考文献『日本城郭大系』4

【上】善慶寺原付近より国峯城  中央の山が城山といわれる 中心部。平野部からやや奥まった所に位置しているが、その分見晴らしは良い。

【左】縄張り図  国峯城は山城部、御殿平の丘城部、麓の平城部で構成されている。 御殿平より下部は耕作地化されて民家もあり、郭の形跡がところどころわかるのみ。

【左上】御殿平大手口  御殿平より少し下った所で、城集落から徒歩で登ってくるとこの部分で 御殿平の北側へと回り込む。
【右上】御殿平  城域のなかでも最も広い削平地の一つで居館跡。北側の谷には沢が流れており、 水の手となっており、反対側の尾根にも郭があるという。
本来ここまで車で来ることができるのだが、今回は林道途中で竹が多数道に倒れてきており、やむなく途中から 徒歩で来た。あまり整備されていない道なので大雨の直後などは注意したほうがよさそうだ。

【左上】竪堀  御殿平から山城部へと向かう途中に見える竪堀。山城部へは車が通れる広さの 林道を200m程行く。
【中上】山城部入口  山城の南側に回り込んだ所から本格的に登りはじめる。
【右上】二の郭  鳥居のある郭で主郭東下の郭。主郭まで小郭がいくつか確認できる。

【左上】竪堀  東側にある堀でかなりの規模のものである。これが御殿平から山城部へ行く途中に 見えた竪堀。
【中上】主郭  東西に延びる尾根上に郭が配置され、その中心の頂にあるのが主郭。 広大な城域の割りには狭いが、居館は下にあるので詰め城的なものであろう。
【右上】主郭西側下  ここからイッキに下がり堀切がある。

【左上】西端部の郭から北側の眺め  主郭から細尾根上に郭がいくつかあり、100m先に 視界が開ける西端部の郭がある。直下に城集落、中央の丘陵部手前に国峯集落、丘陵部の先が富岡の 市街地。晴れていればかなり遠くまで見渡すことができるだろう。
【右上】南側の眺め  浦根集落があり、こちらの方から山城部入口まで道があるようだ。 そして神流町の方へ出る道がある。

【左上】城集落から林道入口  城山入口の案内杭がある。林道は最初の部分が結構ハードなので、 無理な場合はここを直進すると行き止まりになっており、 砂防ダムの所に一台分の駐車スペースがある。そこから登山道が出ている。御殿平まで推定15分程か。 写真右上には民家があるが、この部分も麓の城域部である。
【右上】長善寺前より国峯城



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