倉賀野城

くらがのじょう




武蔵児玉党の一派秩父三郎高俊が倉賀野氏を名乗り、その後は上杉憲政幕下の重臣であったが、 天文15年(1546)武州川越の夜戦で 倉賀野行政が戦死。その後は倉賀野党十六騎が城を守った。
武田信玄が西上野に進出してくると倉賀野城にも攻め寄せ撃退はしたが、内部分裂もあり 永禄8年(1565)ついに落城。信玄は翌年、 箕輪城も落した。
その後、信玄は倉賀野城南西方向2.5qの高地に 根小屋城を築き北条氏に備えた。
武田氏滅亡後、倉賀野氏は滝川一益に従い、撤退後は北条氏に従った。
そして天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって落城。当時の 城主倉賀野秀景は小田原に籠城し、小田原城落城直後に死去し倉賀野城の歴史の幕を閉じた。
<場所>高崎市倉賀野町
<行き方>県道121号上町信号を南へ
約200先突き当たり公園が本丸跡
<駐車場>倉賀野神社駐車場拝借 10台
<撮影日>2004年6月
<参考文献>『日本城郭大系』4

【上】倉賀野城本丸跡 倉賀野城碑  鳥川に面した住宅地の中の公園に石碑が建っている。
この付近が本丸となり南側は鳥川により防御されている。本丸を囲むように二の丸が 造られ、さらにその北、東部分に三の丸、周囲全体を囲む総郭があった。
現在遺構は無いに等しいですが探してきた痕跡を紹介します。

【左】公園内部  石碑以外には特に遺構は無い。
【上】鳥川  城域南側を流れる川で、断崖になっている為南側の防御となっている。

【左・上】井戸八幡神社  言い伝えによると江戸時代、倉賀野城の三の丸跡に突如井戸が出現し、 これを知った高崎城主松平氏が現在の地(二の丸)へ神社を造ったとか。また、別の言い伝えでは 川越の野戦で戦死した倉賀野三河守(行政)が生前鶴ヶ岡八幡をここに勧請したという。
この神社の東側が下っており(写真左上)突き当たりの道が低地を北西から南東へ続いている。 このことから推察して、その道が二の丸と三の丸との間の堀跡ではないだろうか。

【左・上】倉賀野中学校北東側  住宅地の中でこの部分が周りの土地よりも低くなっていて水路がある。 ちょうどこの辺りに二の丸、三の丸、総郭の堀が集まって十字状になっていた。その部分ではないかと思われる。
現在の中学校は総郭の場所に位置する。

【左上】倉賀野神社  倉賀野中学校の北側にあり、共に総郭の西側に位置する。ここから本丸の 公園まで約300m。
【右上】外堀跡  県道121号北側の倉賀野出張所付近。この下に川が流れており、鳥川へ合流する。 この付近では地下を流れており、上部は歩道になっている。この川が自然の堀となって城域の東側 境界をなしていた。



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