松井田城

まついだじょう




本格的な城として構築されたのは安中忠政の時代、 武田信玄が上野進出をはじめた永禄年間初頭(1558〜60)の頃と思われる。
忠政は嫡子忠成を新しく築城した安中城に入れ、 自らはこの松井田城を改修して居城とした。
永禄4年(1661)信玄は安中・松井田間に八幡平陣城を築き、 同7年両城は落城した。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、北条氏が進駐したが、滝川一益の着城により撤退。一益は本能寺の変後、北条氏との 神流川合戦に敗れ、松井田城に残しておいた手勢に守られ伊勢に帰った。
そしてふたたび北条氏が占領、大道寺駿河守政繁を先鋒として碓氷峠を越えて小諸に進出。 そこで徳川方の依田信蕃 と接触し翌年11年には松井田に撤収。碓氷峠を挟んで対峙し城を大改修した。
同18年には小田原征伐の北国勢が碓氷峠を越えて進出し、持久戦になったが4月22日に政繁が 降伏して城を明け渡した。
【上】松井田城北側より  この東西にはしる尾根上に城域が広がる。 現在の松井田市街地はこの尾根の南側だが、当時は北側に東山道、碓氷道が 通っており、北側に大手、城下町が位置していた。奥の尖った山は妙義山。
 
<場所>碓氷郡松井田町高梨子
<行き方>県道216号国衙信号を北西へ直進、松井田町創作館を過ぎて九十九川を渡り
国道18号方面へ。途中案内杭のある道を右折し、約200m先駐車場
<駐車場>登山口前 3台
<撮影日>2004年6月
<参考文献>『日本城郭大系』4



【左】松井田城縄張り図
18号に向かう道から登城口へ向かう道への入口にある。
東西に延びる主尾根が中心となり、北側へ延びるいくつもの支尾根上に 城域が広がっている。
南側も補陀寺へと延びる尾根に削平地がある。
補陀寺は大道寺政繁の居館跡といわれる。
城域西半分が大道寺政繁時代に築かれたといわれ、大道寺郭と総称される。そして東半分が 安中氏時代の城域で安中郭といわれる。


〜大道寺郭方面〜


【左上】大手道堀切  大手筋の尾根を登ってくると堀切が何カ所か確認できる。駐車場から 登ってくるのが大手道。途中で本丸方面、水の手と二手に道が分かれる。本丸方面が大道寺郭、 水の手方面が安中郭へと続いている。
【中上】横堀  本丸方面に向かうとちょうど本丸直下付近に横堀が確認できる。ほとんど埋没して しまっているが、安中氏、武田氏時代から大道寺氏時代のいつごろ造られたのか興味深い遺構である。
【右上】大手門跡  主尾根上にでる前にあり石積みが残っている。

【左上・右上】本丸  本丸と二の丸の間に馬出が設けられ、大手道はその間の堀切に出てくる。
大道寺郭の本丸は尾根上としてはかなり広く80*80m程。北東側に虚空蔵菩薩が 祀られている祠が小山状になっており、櫓台跡といわれる。南東隅にも突き出た部分があり、 櫓台があったと思われ、少し内側に入った部分から東へ安中郭へ通じる道が出ている。

【左上・中上】二の丸と二の丸土塁  北側には城内で一番大規模な土塁が残っている。
【右上】連続空堀(畝状空堀)  二の丸の西側、平坦地に土塁と薬研堀とを交互に構築した遺構で、写真では わかりづらいが結構スゴイ。他では見たことのない遺構だ。


〜安中郭方面〜

   

【左】水の手  大手筋の尾根から東側へ逸れた所にある。上には安中郭と大道寺郭が囲んでいる。 現在も水が流れている。
【右】竪堀  水の手のすぐ東側で安中郭の本丸、二の丸間の堀切部から落ちて来ている。

【左】横堀(東側より)  案内杭にはS字堀と書いてあり、折れを伴った横堀で二の丸下の腰郭部に沿っている。
【上】横堀(西側より)  西側端は水の手脇へと落ちている竪堀につながっている。

【左上】二の丸  安中郭側はそれほどの広さもなく尾根上に同程度の広さを持つ郭が東の方へと続いて いる。
【中上】本丸  東西60m、南北40m程の広さで、安中忠政が本格的に築城して武田軍と戦ったのは この郭だといわれている。
【右上】大道寺政繁の石碑  なぜか安中郭側にこの石碑が建つ。
本丸西側にもう一つ郭があり、そこを越えると大道寺郭本丸へとつながっている。


〜大手筋〜


【左上】大手虎口付近  駐車場から下を見たところで、耕作地と林との境付近が虎口になる。
この付近の耕作地も郭跡であろう。林部分に入ると谷筋の道を下っていき城下町へとでる。
【右上】城下側より大手道  この谷筋の道を登っていくことになる。


〜補陀寺〜


【左上】本堂  この補陀寺は大道寺政繁の居館跡といわれ、背後には郭があり主尾根へと道があるという。
【右上】大道寺政繁の墓  本堂向かって左側の奥にある。大道寺家は存続しているようで、 この周りには御子孫のものと思われる墓が並んでいる。
 



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