箕輪城

みのわじょう

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箕輪城は長野氏の城として永正年間(1504〜20)に長野業尚によって築かれた。
天文20年(1551)関東管領上杉憲政が北条氏に攻められ越後へと落ちていくと、西上野を支配したのは 長野業政である。
しかし、北条氏と協定を結び上杉謙信に対抗するために武田信玄が西上野に侵攻してきた。 永禄9年(1566)ついに箕輪城も武田信玄によって落とされ、城主長野業盛(氏業)以下一族は 御前郭で自刃して果てた。信玄は箕輪城に内藤昌豊を置き西上野経営を任せた。
武田氏滅亡後、織田信長家臣滝川一益が入城し、間もなく厩橋城へ移ったが、本能寺の変が起きると 滝川一益は伊勢へと去っていった。
その後北条氏邦が入城し、天正18年前田利家が率いる北国勢が 上野へと侵攻すると、箕輪城は一戦も交えずに降伏した。

この小田原征伐後、関東に入国した徳川家康は井伊直政を箕輪城に入れ、在城8年の間に大改修を 施し、近世城郭へと変貌したが、慶長3年に高崎へ築城して移った。
現在の箕輪城の遺構はこの井伊直政時代のものである。
<場所>群馬郡箕郷町西明屋
<行き方>県道26号東明屋信号南へ
約500m先 案内板がある所を右折
約200mで二の丸駐車場
<駐車場>二の丸駐車場10台
虎韜門駐車場30台
<撮影日>2004年6月
<参考文献>『日本城郭大系』4

【左上】搦手口  当時は馬出しがあったようである。
長野氏時代から北条氏時代までは、ここが大手口であって、 城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられ、 その時にここが搦手口となったという。
写真左奥が二の丸で右奥が本丸になる。

【左】全体縄張り図  二の丸の南側にある大堀切によって南北が分割される 「一城別郭」の構成である。



【左】城域北側  本丸を取り巻く堀は巨大で、見る物を圧倒する。 そしてその周りをかためるように各曲輪が配置されている。


【上】本丸門馬出し  東から南に鍵形の土塁のあった馬出しで、 土塁の北側から搦手へ、南側から二の丸へ出撃できる構造であった。

〜本丸・御前曲輪〜


【左上】本丸南側堀  本丸門馬出しから見たところ。この堀を見た時点で箕輪城のスゴさに まず圧倒される。
【右上】本丸  現在発掘調査が進められていて、立ち入りはできないが、遺構の一部が見られる。 本丸は南北約100m、東西約70m。この広さもスゴイ。

【左上】本丸南側虎口土塁部分  虎口部分の発掘で東側土塁が虎口部分で石塁になっているのが わかる。また通路の部分は石が敷き詰められていたようだ。
【中上】本丸東側土塁  この土塁が御前曲輪の東側まで続いていることから、御前曲輪も本丸の 一部であったと考えられている。
【右上】本丸と御前曲輪の間の空堀  東部分が浅く西部分が深くなり、西の空堀に降りる通路と なっていたが、後に周囲の堀底が掘り下げられて通路としての機能を失ったらしい。

【左上・右上】本丸北側虎口部分  御前曲輪との境部分でも発掘調査が行われており、 水路と石橋が確認できる。この水路の石には右上写真のように墓石の一部なども多く使われている。

【左上・右上】御前曲輪と内部にある井戸  御前曲輪は本丸の一部であったようだが、 落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられており、精神的な中心であった。
西南の隅に物見、戦闘指揮の為の櫓台があり、下の堀内には石垣が残っている。井戸は昭和2年に 発見された。


〜本丸・御前曲輪周囲の曲輪、堀〜


【左上】御前曲輪北堀  ここの部分で御前曲輪、稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪が集まっており、 重要な地点である。写真は北側の出口方面で新曲輪、丸馬出しへとつながる。
【中上】稲荷曲輪  御前曲輪の北東に位置しており、約70m低くなる。北西隅の稲荷社のある 稲荷山(写真左隅)は櫓台で、御前曲輪北堀を通る道を押さえている。北に虎口があり、南は帯曲輪につながる。
【右上】稲荷曲輪と御前曲輪の間の堀  右側が御前曲輪となる。

【左上】新曲輪西側の堀  この付近は深さは無いが水堀だったようだ。左側の山が玉木山で 城域で最も高いところ。この堀を30m程北に行くと丸馬出しがある。
【中上】新曲輪  南半分は耕作地跡のような感じになっていて、北半分は宅地になっている。
【右上】丸馬出し  南側の写真であるが、玉木山と土橋でつながっているように見える。東面の 新曲輪の中に三日月堀があるが、藪でハッキリとは確認できなかった。すぐ北側まで宅地がせまって きており、ギリギリ遺構として残された感じ。

【左上】通仲曲輪(みちなかくるわ)  本丸西側の曲輪で南の蔵屋敷から土橋でつながっている。 整備されておらず、この季節は膝上の藪。
【中上】御前曲輪西側堀に残る石垣  ちょうど櫓台の下あたりで、補強の為の石垣であろうか。
【右上】本丸堀の橋台  本丸(写真右)から蔵屋敷(写真左)にかけて橋が渡してあったそうで、 その橋脚の台があるため、この部分で堀の幅が狭くなっている。

【左上】本丸堀西側  【右上】堀の中より本丸門馬出し  写真奥がその部分で左側が本丸、右 側が二の丸になる。


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