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![]() 永正7年(1510)越後長森原において、長尾為景(上杉謙信の父)と戦って敗れた上杉憲房(長森原で討死した関東管領顕定の嗣子)は、 三国峠を越えて上州に撤退したが、ここ宮野で敗れた。 永禄3年(1560)、長尾政虎(謙信)は宮野城に一泊し、宮野を猿ヶ京に改めたという話がある。〔『加沢記』〕 謙信の急死によって勃発した御館の乱において、天正6年(1578)5月、上杉景虎(北条氏康の七男)支援のため、越後へ向おうとした 河田重親は、宮野城に阻止され敗退したが、小田原勢の進出により宮野城兵を追って三国峠を越えた。 しかし、翌7年3月、景虎の敗死によって沼田に撤退、上杉景勝(謙信の甥)方の尻高左馬助らが宮野城に入った。 天正8年には武田勝頼が沼田地域を手中におさめ、宮野城も武田氏のものとなった。 【上】赤谷湖南側対岸より宮野城全景 赤谷湖に突出した半島を堀切って築城している。現在はホテルが建てられ遺構は堀の一部が僅かに確認できる。赤谷湖は人造湖の為、 築城当時はおそらく深い谷だったのであろう。西側から流れてくる西川と東側の赤谷川の合流部に築城したものと思われる。 ![]() ![]() ![]() 【左上】内堀手前 ホテル入口に当たる部分。この先の道両側に堀跡が確認できる。 【中上】土塁 近づくことが出来なかったため、定かではないが道の西側にある。『大系』の縄張り図でみると 外堀に面して土塁が東西に延びているが、途中で南北に折れて延びており、その部分かもしれない。 【右上】内堀 上幅約8m、この主郭と二の曲輪を分ける内堀は良好に残っている。 ![]() 【左】東側より宮野城全景 『大系』にはホテルが建設される以前の縄張り図が掲載されている。それによると半島状部分に二条の堀を普請し、主郭・二の曲輪 からなっており、堀には折れをともなっている。 〜感想〜 越後・上野国境である三国峠の上野側麓にあり、街道を扼する場所である。 史料上にも度々登場しており、天正8年5月4日には、地衆の中沢半右衛門宛に武田氏方である真田昌幸の判物が発給されている。そこには 「猿ヶ京三之曲輪」を焼き払ったことが書かれており、二の曲輪のさらに外側に曲輪があったようである。 三国峠を利用し国境を往来するためには、ここを押さえなければならないという地であるため、武田氏滅亡後も使用され続けたで あろう。
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