明徳寺城
 みょうとくじじょう

《別名》 天神山城 利根郡みなかみ町後閑



南北朝時代、会津の葦名氏の来攻に備えて荘田城の沼田氏が築いた天神山砦を改築したものと考えられ、 明徳年間(1390〜94)僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、現在の名称が一般的になっている。 〔現地解説板〕

上杉謙信が死去した後、景勝と景虎との跡目相続争いにより御館の乱が勃発した。 北条氏政の弟であり謙信の養子となっていた景虎側に付いた 河田重親による沼田城攻めにより天正6年(1578)7月沼田城は落城した。
天正8年に入ると武田氏による沼田地域の進出作戦が活発化し、利根川西岸地域の領主は武田氏配下となっていく。
『加沢記』によれば天正8年1月31日、武田方の真田昌幸は利根川を越えて明徳寺城に押し寄せ、落城させたという。
真田氏は同年秋には沼田城を落城させ、沼田地域一帯は武田氏の領域となった。

天正18年、北条氏が豊臣秀吉により滅亡すると、沼田地域は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。
〔現地解説板〕

【上】西側より明徳寺城全景
利根川東岸、赤谷川合流地点よりやや上流に位置する明徳寺城は、利根川の渡河点「後閑」を押さえるために築かれたと思われる。 対岸には直線にして約1.8qの距離で名胡桃城がある。 その上流部、ここから約2.5q先には小川城があり、この三城の間は 越後と上野を結ぶ街道が通る沼田地域北部の要衝の地である。
また沼田城は同じ利根川東岸に位置しており、ここから約5q下流である。

『明徳寺城要図』


【左上】北東側虎口  郭馬出し(現在、「みねの湯」と民家・駐車場の部分)から、土塁に囲まれた空堀を渡って 城内に入る。この虎口はもともと無かったという説もあるが、最終段階においては地形・馬出し郭の存在から考えて、おそらくここが大手口であったろう。
【中上】城内  ほとんどの部分が耕作地となっている。『大系』では「主郭と二の丸」、現地解説板では「3段ほどの郭に区画され」 ていたという。
【右上】城内西側の土塁  西側の土塁に沿って道がある。写真左側が土塁で郭内からの高さは最大部分で2m程である。この外側 下にも道が通っているが、東側のように外側に土塁が伴わないため、もともと西側には空堀は無く、帯郭として機能していたと 思われる。
【左上】東側空堀  北から東側を廻って南端まで続いている巨大な空堀。南側の規模の大きいところでは堀底幅が約10mある。 三ケ所外側土塁に切れ目があり、虎口と思われる部分もある。南端部分において郭内部とそのまま接続していることから、 通路としても使用していたと思われる。
【右上】名胡桃城より明徳寺城を望む  利根川を挟んで対峙する。小川城と名胡桃城の縄張りは酷似しているが、明徳寺城は まったく異なっている。


〜感想〜
今回の見学では藪・耕作地内等の事情により、未踏査部分がある。城域北部と東側の内側土塁、郭内部がその部分にあたる。 詳細な縄張り図は西村氏のものがあり、参照していただきたい。
この地域がもっとも緊張していた時代は、真田氏が沼田城攻略へと動いていた時期であろう。利根川東岸は北条氏が押さえていた ため、現在見られる縄張りの大部分は北条氏によるものの可能性が高い。
この城の南端部分の防御性がかなり低いのが気になる。東西周辺地形の違いによるものなのか、東側と同じように土塁が二重に廻っていたが、 現在に至る過程の中で、破壊されてしまったのであろうか。

『加沢記』によると真田氏による明徳寺城攻めの話は天正8年1月の話となっているが、もう少し遅い時期かと思われる。 天正8年2月の時点において、まだ小川城の小川可遊斎家臣である小菅刑部少輔と武田氏側に付くよう交渉している最中である。 翌3月16日には小川可遊斎に知行宛行いをしている。
さらに翌閏3月30日付けの矢沢頼綱宛て武田勝頼書状において、 「沼田に至り大利を得る」と書かれており、これより少し前に明徳寺城を攻略したと思われる。


行き方 県道上越線後閑駅より一つ南側の信号を東へ入り、関越道の側道に出て、みねの湯を目指す。
駐車場みねの湯駐車場借用
撮影日2008年10月
更新日2008年11月3日
参考文献 『日本城郭大系』4
『沼田市史』1995年
西村和夫「明徳寺城」『中世城郭研究』19 2005年
栗原修「越後御館の乱と上野国沼田地域―沼田在番衆河田重親の動向を中心に―」
 『武田氏研究』14 1995年
栗原修「戦国大名武田氏の上野支配と真田昌幸」『武田氏研究』18 1997年

『戦国遺文』武田氏編 東京堂出版 2002〜06年
「加沢記」『沼田市史』資料編1別冊 1995年
参考サイト 「余湖くんのホームページ」