名胡桃城
 なぐるみじょう

《別名》  利根郡みなかみ町下津


12年ぶりに訪れた名胡桃城は、だいぶ変化を遂げていました。

平成4〜12年度(1992〜2000)にわたる発掘調査により、当時の姿がだいぶ明らかになってきており、 その成果内容が城内各所の案内板で詳細に解説されてます。
また、平成28年(2016)のNHK大河ドラマ「真田丸」の放映に伴い、 平成27年(2015)6〜12月にかけて、土塁などの一部を復元する保存整備工事が行なわれました。
このような状況変化の記録を残しておこうと思い、今回は城内写真の一部をアップしました。
なお、現況部分の解説は現地解説板を参考としています。

【上】二郭内部から三郭方面
通路跡は舗装されて歩きやすさに配慮し、発掘調査によって判明した建物跡はわかりやすく表示されている。 さらには土塁まで復元してしまう徹底ぶりである。
また、般若郭(駐車場)と城跡入口の間にある旧喫茶店の建物は案内所となっており、写真展示による解説のほか、 土産物まで売っている。

―発掘調査による時期区分 (現地解説板より)
発掘調査で検出された掘立柱建物址などの各種遺構群における規模・方向・重複関係などの構成要素を検討すると、 少なくとも3時期に区分することができる。
第1期は築城から天正年間半ば頃で、まだ三郭は存在せず三日月堀による馬出があり、各郭は土橋によって連結していた。 二郭と般若郭の建物は通路に平行して大小のセットで建てられ、柱間の長さは約8尺が多い。
第2期は天正年間後半部分で、大きく改築補強が行なわれている。三郭と新たな馬出を増設し、主体を二郭に移し各虎口を固め、 堀切には木橋が架け替えられた。二郭の建物は大型で、柱間は約7尺が多い。
第3期は天正年間以後で、近世以降も屋敷が存在した。土塁や柵は不明だが、郭間の堀切は土橋が版築されている。 建物は小型化し、柱間は6尺前後。

主な整備内容は、名胡桃城の第2期を中心に、二郭堀切と主郭堀切の木橋復元、 二郭防御構造がわかるように土塁や南北両虎口の復元的な整備、三郭と馬出は平面的に表示等を行なったが、 門や建物は復元していない。


『名胡桃城址全体図(現地解説板に加筆)』


―現況―
【左上】馬出の西側から @(←番号は撮影位置〈全体図参照〉)
現在は埋まっているが、三郭虎口の外側に径20mほどの三日月堀を廻らして馬出としていたことがわかっている。
馬出と外郭の間は、馬出の西側に橋受溝を掘り外郭側に基壇を設け、長さ約8mの木橋を架け渡し、直線的に進入できないようにしている。
また、三郭と馬出をつないでいた土橋の一部を掘り切って、長さ約5mの橋に架け替え補強されていたことも判明した。

【右上】土塁上から二郭内部 A
郭内の建物敷地は周囲より約1m低く平坦に造成されており、西〜南〜東側には段があり、幅6〜7mの 土塁基底部が残っている。
郭の南北に虎口があり、それを直線で結ぶように両脇に溝を持つ幅2.5mほどの通路がある。
通路の西側からは8棟の掘立柱建物址群がみつかり、建設年代は3期に分けて考えられるという。

【左上】二郭北虎口 B
主郭へ続く虎口。大きくクランク状に進入する構造になっている。 また、土塁の下からは幅約3m、深さ約1.5mの堀が確認され、空堀から土塁へ改築されたことが判明している。

【右上】主郭内部 C
現在、両側の崖面は大きく崩落しておりコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったと考えられている。主郭内の虎口や建物の状況はわかっていない。

【左上】ささ郭 D
城内で唯一残存する土塁。郭内部は両側に土塁が迫っているため狭い通路状になっている。
通路の先端部に礎石が4個設置され、搦手門があったという。

【右上】袖郭から沼田城方面の眺め E
沼田城は右側の山に隠れてしまって見えない。しかし、利根川の段丘上に位置する当城からは、 下流域一帯を見渡すことができる。
また、対岸には明徳寺城、 上流には小川城がある。


【左】三郭虎口から馬出・外郭方面 F
国道17号が馬出外側を廻る三日月堀跡の一部にかかてしまっている。

―感想―
「真田丸」効果もあり、整備がしっかりと行なわれているが、復元土塁は…賛否分かれるかもしれない。
長年にわたる発掘調査の成果が、現地解説板によってわかりやすく理解できたのはよかった。
あとは来年以降、この整備が行き届いた状況を維持できるのかどうか、である。


行き方 国道17号月夜野バイパス、名胡桃城址前信号を入る。
駐車場般若郭が駐車場 10台以上
撮影日2016年8月29日
更新日2016年11月3日
参考文献 現地解説板、『日本城郭大系』4
参考サイト






―以下、2004年6月訪城の記録―

名胡桃城は明応年間(1492〜1501)に沼田景久の三男名胡桃三郎景冬が 沼田城の 支城として築いたというが定かではない。
天正6年(1578)に沼田城が北条氏の手に落ちたのに対し、上杉、武田方の 真田昌幸が利根川の渡河点警護と沼田城略取の基地として、本格的に築城した のであろう。城代は鈴木主水重則であった。そして天正8年には真田勢により 沼田城は攻略され、名胡桃城は沼田城と 岩櫃城の中継地となった。
天正17年に豊臣秀吉は沼田地方を北条方へ渡したが、名胡桃城は真田氏の 要望により所領として残された。北条方の沼田城代となった猪俣邦憲はこれを 不満として同年11月にこの城を攻略、鈴木主水は自害した。
秀吉は北条氏の不信を怒り、この事件をきっかけに翌年同氏を攻め滅ぼした。
小田原征伐勃発の口火を切った城である。

<場所>利根郡みなかみ町下津
<行き方>関越道月夜野ICより国道17号
月夜野大橋を渡って坂を登りきった所
<駐車場>国道の北東側 馬出が駐車場 3台
<撮影日>2004年6月
<参考文献>『日本城郭大系』4

【左上】城域北東下からの眺め  先端部はかなり細い尾根上になっており、利根川方面へ突き出た 段丘上にある。

【左】現在国道17号が城域中心を横断している。北東側に馬出し、三の丸、二の丸、本丸、ささ曲輪、 物見曲輪と続き、谷を隔てて西側に般若曲輪、国道の南側に外曲輪、水の手などがある。

【左上】馬出し  案内杭には丸馬出しと書いてあるが・・・
【中上】三の郭手前の堀切  土橋も状態が良く残っている。
【右上】三の曲輪、二の曲輪  三の曲輪は平成7年に発掘調査され、掘立柱建物址3棟など確認された。

【左上】二の曲輪手前の堀切  【中上】本丸手前の堀切   ここも土橋が造られており、よく残っている。 また二の曲輪虎口は喰い違いになっているのがよくわかる。
【右上】本丸  約50m*25m、先端部に行くにしたがい、幅が狭まっていく。

【左上】本丸よりささ曲輪方面  堀切を経て先がささ曲輪。これより先は狭い尾根上である。
【中上】ささ曲輪土塁  ここも平成4年に発掘調査が行われ、礎石の櫓門址と土塁の石垣などが 確認された。
【右上】沼田城方面  南東方向に約4q。 利根川の左岸段丘上にある。しかしどこの部分かは 確認できず。もしかしたら手前の山に隠れてしまっているかも。

【左上】ささ曲輪より物見曲輪  ほとんど上部が平らな部分が無いくらいの物見台で、 比高もささ曲輪から先はイッキに下がっていく。
【中上】本丸より二の曲輪東面  腰曲輪が確認できるがその下は湯舟沢まで約30mの断崖となっている。
【右上】二の曲輪より外曲輪方面  国道の反対側が外曲輪だが、耕作地、宅地化しており、 一部堀跡が確認できる程度。

【左上】外曲輪堀跡  ちょうど馬出しの正面から奥に向かっている。かなりの規模である。
【中上】堀跡の西側  耕作地になっているが、外曲輪部分はかなりの広さだったようである。
【右上】般若曲輪  二、三の曲輪と北西側の堀切を隔ててあり、ここは発掘調査で10棟の掘立柱 建物址と周囲の柵塀址などによる館址が確認された。


【左】水の手曲輪
馬出しから国道反対側左手の橋の下へ降りて行き、外曲輪の東下にあたる所。
現在は藪の中で、空堀に囲まれてまったく目立たない所にある。


【左】明徳寺城より名胡桃城方面
利根川対岸にある明徳寺城との距離は直線にして約1.8qである。真田氏は沼田城攻略のため、天正8年に明徳寺城を落城させて、 そこを橋頭堡とした。