沼田城

ぬまたじょう

《別名》 倉内城

群馬県沼田市倉内

 沼田城概要

沼田城は天文元年(1532)沼田氏12代の沼田顕泰によって築城された。現在の城の中心部が その頃の城域であったろう。
永禄3年(1560)上杉謙信によって落城し、謙信の関東経略の拠点となった。
天正6年(1578)謙信死後、北条氏政が支配、天正8年には真田昌幸が入城。この時代に 沼田氏は滅亡した。
天正10年、武田勝頼が滅び、厩橋に進駐した織田信長の家臣、滝川一益は甥の儀太夫益氏を沼田城に 入れたが、本能寺の変により滝川一益らも伊勢へと撤退し、城は真田氏に返還された。 真田昌幸はここを嫡子信之に与え、重臣矢沢頼綱に託した。
天正17年豊臣秀吉は北条氏直を上洛させるために、沼田を北条氏に渡すことを昌幸に了承させ、 北条方は城代に猪俣邦憲を置いた。ところが、邦憲は昌幸方に残された 名胡桃城を略奪した為、 秀吉は激怒し、北条氏に宣戦。翌天正18年7月に北条氏は没落し、 沼田城は真田信之に返された。
徳川家康に従った信之は、関ヶ原以後、昌幸の旧領をすべて与えられた。
その後信濃松代へと移ったが、 沼田はそのまま安堵され、沼田真田氏は続いたが、天和元年 (1681)幕府は悪政を理由に改易し、城は解体されてしまった。


【写真上】沼田城南西下より

沼田駅より見たところ。北は薄根川、西は利根川、南は片品川が 流れる。比高70mの崖上に中心を置いて築かれた要害である。


 立地

沼田地域は群馬県の最北部に位置し、新潟県や福島県、栃木県などと接している。西を利根川、 北を薄根川、南東部を片品川に挟まれた大規模な河岸段丘が発達しており、沼田城はその段丘先端部に位置する。


 現況


公園入口(三の丸)

本丸、二の丸の南側に位置し、東西380m、南北120m程あったという。現在は 駐車場、テニスコートなどがある。


三の丸土塁

駐車場脇にわずかに残る。その外側は現在道になっているが、堀跡であろう。


本丸堀跡

公園内の二の丸(現在野球場)と本丸の間に設けられた堀で、現在その一部が 池となって残っている。池の正面に見える石垣は天守があった真田氏時代の石垣の一部といわれる。
平成9年にこの付近を発掘調査が行われ、池の石垣に連なる石垣の一部、堀の中に崩された石や多くの瓦が出土した。
地中にはさらに北側数十mに渡って石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられた瓦や石が埋没していると考えられている。


本丸 復元鐘楼

本丸内部は現在公園となりお花畑と化している。その南西隅に建てられている。


本丸北東隅 天守跡

沼田城の天守は真田信之が慶長年間(1596〜1614)に五重の天守を建造したと伝えられる。


本丸西櫓台の石段、石垣

破却されて埋められていたものが発掘調査によって発見された。


本丸西櫓台の石段、石垣

上の写真の反対側。沼田城で一番有名な石垣部分。この部分も信之時代のものといわれる。


北郭(捨郭)

本丸の北側に位置し、本丸より若干低くなっている。

北郭より北西側の眺め

月夜野(名胡桃城)方面。下に薄根川、先の方に利根川の流れが見える。


北郭より本丸方面

土塁が確認できる。


北郭と保科郭の間の堀

民家が堀付近に建ち並んでいるが、自然地形を利用したもので大規模である。


保科郭付近

本丸の鬼門を守る位置であるが、この付近は宅地化している。


二の丸

本丸の東にあり、現在は野球場となっている。土塁が周囲に残っている。


大手門跡

三の丸の南側を取り巻くように外郭が広がり、城下町を形成していた。外郭にも堀をめぐらし、 正門に大手門を設けた。現在の沼田小学校正門がその場所である。 

 

 参考情報

行き方 国道120号公園入口信号北へ 約400m先沼田公園付近
駐車場 公園入口 大駐車場
撮影日 2004年6月11日
更新日 2020年5月20日
参考文献 『日本城郭大系』4
参考サイト


 正覚寺 ―「小松姫」の墓―

真田初代沼田城主信之の夫人である「小松姫」または「いね」の墓がある寺。
沼田城三の丸駐車場からそのまままっすぐ南下し約700m行った所。
小松姫は徳川家康の重臣本多忠勝の娘で、家康は小松姫を養女として天正17年に嫁がせた。 関ヶ原の戦いで東軍に付いた信之、そして敵として別れた信之の父昌幸、弟信繁(幸村)が 佐野犬伏から上田に返る途中、沼田城を訪れた際、入城を拒んだ小松姫は女丈夫とうたわれた。 元和6年(1620)に病み、療養の為江戸から草津に来る途中、武蔵国鴻巣で没した。 享年48歳、同所で火葬、分骨して同所勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺にそれぞれ葬られた。
〜現地案内板より〜



正覚寺山門

山門を入って左奥にある。


「小松姫」の墓

案内板あり。






 実相寺・長泉寺 ―藤田信吉の墓―

天正6年(1578)上杉謙信の死去後に勃発した御館の乱に乗じて、北条氏は沼田地域を押さえることに成功した。 そのころ、鉢形城主北条氏邦の家臣だった信吉は沼田城将となった。
天正8年に入ると、武田氏配下の真田昌幸が沼田城計略に乗り出してきた。信吉は、昔からの知り合いだった真田に開城を説得されたことで、 武田方に服属するとの意思を伝え、同年8月中旬、沼田城は開城された。
信吉は破格の待遇で武田方へ迎え入れられ、同年12月には千貫文と利根南雲(渋川市)、さらに利根川東岸の沼田地域大半の土地支配を認められた。
天正10年3月に武田氏が滅亡すると、上野国へ入った滝川一益に従属したようだが、すぐに上杉氏を頼って越後へ移った。 そして、関ヶ原合戦後は徳川家康に取り立てられ、下野国西方領(栃木市)1万5千石を与えられた。
だが、元和元年(1615)に改易されて牢人となり、翌2年に信濃国奈良井(長野県塩尻市)で死去した。享年59歳と伝わる。



実相寺 本堂

所在地は栃木県栃木市西方町元1739  
撮影日は2019年6月14日


藤田信吉の墓

本堂から左手奥に進む。中央の崩れた五輪塔が墓とされる。
信吉は西方藩主だったことから、ここに供養塔が建てられたのであろう。


長泉寺

所在地は長野県塩尻市奈良井365
撮影日は2019年6月29日


藤田信吉夫妻の墓

山門を入って左奥にある。向って右側が信吉、左側が妻の墓とされる。
中央の石碑には、天正2年に信吉が伽藍を建立し、その後天正5年の鳥居峠合戦の時、兵火により寺が全焼した際にも信吉が再建したと書かれている。