小川城

おがわじょう

《別名》

群馬県利根郡みなかみ町月夜野

 史料からみた小川城

 

信頼できる一次史料に小川城が登場するのは、小川可遊斎の時代になってからである。

可遊斎の時、沼田地域は上杉氏→北条氏→武田氏と支配者が変わる。可遊斎はその中でうまく立ち回り、武田氏時代には 沼田城代藤田信吉とともに、沼田を代表する有力な領主となっている。 武田氏滅亡後、可遊斎は越後の上杉景勝を頼り、以降、小川家は幕末まで上杉家家臣として続いた。

○永禄10年(1567)3月7日、可遊斎は上杉謙信から「過所」といういわゆる通行手形を与えられた(『上』553)。 その内容は「越後から毎月15疋分の荷物を可遊斎が受け取り、その移動の際には関所や渡し場を間違いなく通行させよ」 というものである。

○天正6年(1577)、謙信死去後に生じた跡目相続争い「御館の乱」の最中、沼田地域は小田原北条氏領となった。 翌7年8月24日、八王子城主北条氏照が沼田に着城した際、可遊斎宛てに書状を発給した。 内容は、可遊斎から受け取った書状への礼を述べた後、可遊斎が越後へ出向いて氏照に対して奔走することに対し、 「沼田の地へ「仕置」をするために再び沼田へ来城し、可遊斎の仕事に邪魔が入らないよう沼田の者たちに申しつけた。とりわけ 可遊斎が留守にしている間のことは、私(氏照)が下知しておくので安心してください」というものであった(『戦北』2097)

○天正8年(1580)2月頃から武田氏方の真田昌幸によって、沼田地域攻略が本格化する。 昌幸がまず手を付けたのが小川城の可遊斎だった。交渉の末、3月中旬には武田方に着くことで合意した(『戦武』3285)。 北条方の沼田城との最前線となった小川城において、可遊斎は防衛にあたった。
○同年8月に昌幸が沼田城の藤田信吉の説得に成功し、同城が武田方の手に渡ると可遊斎は上杉景勝とのパイプ役を命じられた(『戦武』4290)

○天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、可遊斎は上杉景勝を頼って越後へと退去した。

○同年3月以降、加沢平次左衛門が江戸時代前期に書いた『加沢記』によれば、可遊斎が越後へ退去したのち、 小川城には小川氏門葉の一人、北能登守が真田昌幸配下として天正20年(1592)頃まで在城したという。

○寛永15年(1638)、真田信政が4代沼田城主となる。のちに沼田真田氏の5代目城主となる真田信澄(幼名兵吉)は、この時より18年間、 母慶寿院とともに小川城三の丸の陣屋に居住したという。

○明暦3年(1657)、真田伊賀守信澄(信利)が沼田城主となる。以降、小川城は廃城となった。

○小川可遊斎の出自
『加沢記』によれば、小川城は沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして明応元年(1492)に築城したと伝えられる。
景久はここに次男の次郎景秋を置き、小川を名乗った。三代目城主小川秀康が戦死した後、家を継ぐべき子息が なかった。その頃、上方牢人赤松孫五郎が城内に留まるうち、次第に軍議にも加わりその才を認められ、小川の名跡 を継ぎ、小川可遊斎と名乗ったという。

上杉氏家臣河田氏の系図「藤原姓河田氏累系」や景勝期の家臣たちが確認できる「文禄三年定納員数目録」などと総合して考えると、小川可遊斎は近江出身のようで、 上杉謙信が2度目の上洛を果たした永禄2年(1559)、近江国において岩鶴丸(河田長親)が謙信に見出されて家臣として取り立てられた際、 ともに越後へ来たのではなかろうか。そして、謙信の関東越山後、小川城に可遊斎を置いた可能性が高い。

★(略記号)『戦北』(文書番号)…『戦国遺文』後北条氏編、 『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、 『上』(文書番号)…『上越市史』別編上杉氏文書集一・二

【写真上】南西側より小川城全景

利根川段丘崖を利用して築城されている。この地は小川城と名胡桃城明徳寺城とを結んだ三角形の中に、 越後と上野を結ぶ街道である三国峠・清水峠越えの両街道筋の結節点があり、 利根川と赤谷川との合流点、さらに利根川の渡河点もある重要な場所である。
特に利根川西岸に位置する名胡桃城とは直線で約3q弱の距離で、選地・縄張り等が非常に酷似している。


『小川城要図』


 立地

沼田盆地の北西に位置し、利根川と赤谷川との合流点北側、両河川に挟まれた河岸段丘上にある。また、上野国と越後国とを結ぶ 街道が両河川に沿って2本通っているのだが、その両街道の分岐点にもなっている。
街道の一つは沼田から利根川に沿ってまっすぐに北へ向かい、清水峠を越えて行くルートである。 もう一つは沼田から西へ迂回しながら赤谷川沿いに北へ向かい、三国峠を越えて行くルートであり、 両街道は越後の六日町(南魚沼市)で合流する。そこには上田荘の拠点となる坂戸城がある。

また、利根川の渡河点の一つとして小川城付近が想定されている。史料上でも天正9年(1581)6月7日付、真田安房守(昌幸)宛の武田家朱印状に、 小川城の対岸に位置する後閑の名が付く「後閑橋」が登場しており 、この時期にはすでに橋が架けられていたことがわかる。


 アクセスルート


小川城脇を通る国道291号

上越新幹線上毛高原駅から国道291号を南へ約200m。


案内板

簡易的ではあるが、小川城の概要がよくわかる。特に「小川城年表」は沼田市文化財調査委員の小野瀬氏の監修によるもので、史料の典拠も書かれており(史実かどうかはさておき)信頼できるものである。 ちなみに年表にある「小川本城根元記」は江戸時代に書かれた二次史料であるため、真偽のほどは不明である。


 現況  ―2019年2月21日現在ー


主郭と二の郭の堀

「小川城址」の旗が何本も立っており、地元の方による整備が行き届いている。


主郭と二の郭の堀

「折れ」をともなう規模の大きな堀。最大の見どころ。


主郭

「小川城址」の石碑が建つ。


 現況  ―2008年10月現在ー


主郭

南北約25m、東西約45mで周囲に土塁が僅かに残る。虎口南側には櫓台と思われる土塁状の高台がある。 主郭より先端部には「ささ郭」が付く。南北には沢が流れ、20m以上の断崖となっている。


主郭と二の郭間の堀

高さ南端部分で10m、上幅15mと規模が大きく、虎口のところに折れがある。 二の曲輪より西側は国道・上越新幹線の敷設で、ほとんど痕跡をとどめない。
その際に発掘調査は行われており、『小川城址』にまとめられている。山崎一氏の縄張り図も掲載されており、 名胡桃城との類似性も指摘されている


ささ郭

主郭とは約1.5mの段差が付いている。内部はだいぶ傾斜している。


堀から二の郭(西側)方面

宅地化が進んでいる。地字によってかなり西側に城域が広がっていたことが想像できる。


南東方面の眺め

利根川対岸の明徳寺城とは直線で約2.5q。 おそらく利根川の渡河点はこの二城の間にあったと思われる。
天正9年6月7日付、真田安房守(昌幸)宛ての武田家朱印状には「後閑橋」と書かれており、架橋もされていた。


南方面の眺め

遠くに沼田市街、手前の段丘上に名胡桃城がある。さらにその手前には猿ヶ京方面から流れてくる赤谷川 が利根川に合流している。


 感想

遺構は主郭周辺のみだが空堀の普請を見ただけでも、築城技術の高さがかいま見られる。この場所の重要性から上杉氏が 侵攻してくる以前、沼田氏が勢力を張っていた頃から、沼田城の支城として小川城は築かれていただろう。
利根川段丘崖に築かれ、主郭から三の曲輪、その外側には根小屋、主郭の先端にはささ郭、沢を挟んで北側に捨郭と名胡桃城と 規模も含めて酷似する。空堀、虎口の造り、規模も似ており、現在見られる遺構は真田氏時代のものと思われる。

『加沢記』は江戸時代の史料であるため、内容は検討が必要な部分が多々あるが、戦国期、沼田地域の在地の動向が生き生きと描かれている。
史料における可遊斎の初見は永禄10年3月7日付け上杉輝虎(謙信)朱印状で、越後から佐野城への通行手形である。 上杉謙信時代、小川城は上野国内への物流の拠点だったのであろう。


 参考情報

行き方 上越新幹線上毛高原駅から国道291号を南へ約200m。
駐車場 国道沿いに駐車スペース 2台
撮影日 2008年10月、2019年2月21日
更新日 2008年11月1日、2020年5月23日
参考文献 大貫茂紀「小川可遊斎と大名権力」「天正八年における小川可遊斎の動向」『戦国期境目の研究―大名・領主・住人―』(高志書院、2018年)
『日本城郭大系』4
『沼田市史』1995年
唐沢定市「小川可遊斎文書について―吉川金蔵氏旧蔵文書―」『群馬文化』202 1985年
栗原修「越後御館の乱と上野国沼田地域―沼田在番衆河田重親の動向を中心に―」『武田氏研究』14 1995年
栗原修「戦国大名武田氏の上野支配と真田昌幸」『武田氏研究』18 1997年
群馬県埋蔵文化財調査事業団『小川城址』1985年
『群馬県史』資料編7 1986年
「加沢記」『沼田市史』資料編1別冊 1995年
参考サイト