蒼海城
 おうみじょう

《別名》  前橋市元総社町


―史料からみた蒼海城―
蒼海城に直接関係する史料はない。

江戸時代中期のものと推定されている「上野伝説」「総社記」[ 樋口千代松・今村勝一共編 『上野志料集成』 國史研究會、1917年]には、 長元元年(1028)6月、上総介平忠常が下総国よりここに移り、長子下総介常重、孫千葉介常胤が城鎮護のため、 城の四方に寺を建立して五智の如来を安置したと書かれている。 その後、永享元年(1429)長尾景行によって修築されたというが、事の真偽は定かではない。
また、永禄9年(1566)、武田信玄によって攻略された、とする。
さらに、天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後、徳川家康の関東移封とともに諏訪から従ってきた諏訪頼忠が文禄元年(1592)惣社に入った際、 城の北東部に長屋を建てて居住したという。
慶長6年(1601)諏訪氏が諏訪へ戻ると秋元長朝が入部した。しかし、彼は蒼海城を放棄して、その北側の植野に総社城を築城したため、 当地は元総社と呼ばれるようになったといわれる。

【上】御霊神社裏手に残る土塁
御霊神社から本丸付近にかけて残る土塁が明確にわかる唯一の遺構である。現在の道路は堀跡のようだ。本丸は写真奥右手になる。

『蒼海城跡地図』  (総社神社〈元総社町1丁目〉内の案内板)


―蒼海城域の発掘調査―
城域内では所々で発掘調査が行なわれている。
古墳時代には多くの古墳が築造されていた。
城域内においていくつかの大溝が確認され、国府城における北・東外郭線と推定されている。
さらに掘立柱建物跡、「国厨」「曹司」「国」「邑厨」などと書かれた墨書土器や人形の出土が確認され、国府関連の様相を示している [前橋市埋蔵文化財発掘調査団編『元総社蒼海遺跡群』(21)、2009年]。
上野国府の範囲・建物については不明瞭な部分が多いものの、上記は発掘調査による大きな成果である。


―立地―
現在の元総社町の大部分が城跡となっている。東西を染谷川と牛池川に挟まれ、北側以外は湿地帯に囲まれていた土地であった。
それは土俵を両河川の合流点に積んで川を堰き止め、氾濫をつくって城の外郭防御線としたためで、 今でも染谷川には一番俵…五番俵などの跡を見ることができるという[『前橋市史』]。 また、当地は上野国府の所在地と比定されていることから、山崎一氏は「幻の上野国府を戦国城郭に編成したのがこの城」としている[『大系』4]
城の周囲には、上野国分寺・国分尼寺跡・山王廃寺跡・上野国総社がある。


―現況―
【左上】御霊神社
本丸の西側に位置する。神社背後に土塁が残存しており、本丸方向に続いている。

【右上】御霊神社より南方面
ここが比較的高い土地であることがわかる。周囲は宅地化されており、狭い道が入り組んでいる。


【左】総社神社
一般的に総社とは、国・郡・郷などの一定地域内にある多くの神社の祭神を一ヶ所に集めて勧請した神社の称である。
よく知られているのは国ごとに設けられた一国の総社であり、ここは上野国総社である。
11世紀後半、因幡国の総社が史料上で確認できるため(「総社」の初見)、その頃には一宮・総社制の実態が備わっていたことになる。
地方における国衙祭祀を中心とした神社制度は、在庁官人・国人層を結集していくための精神的支柱として運用された。 [『国史大辞典』を参照]
文明18年(1486)10月20日頃、天台宗の学僧・歌人である堯恵が上野国府に置かれた長野の陣所に到着した。堯恵は「軍兵が野に満ちている」と描写している。 その後、彼は関東管領上杉顕定のもとを訪れている[『北国紀行』]
当時、山内上杉氏の家宰職をめぐって揉めていた長尾景春が反乱を起こしていたため、付近は軍事的緊張状態にあった。

長享2年(1488)9月28日、禅僧であり歌人でもある万里集九が当地を訪れ「途中隔一村 馬上望拝上野之惣社 …惣社久聞今始視 数株老樹斧屠残 神猶献得刺君寿 乱後村肥牛臥欄」 と記している[『梅花無尽蔵』]


―感想―
ここが古代から中世にかけて国府として上野国の中心地であったことは、最新の発掘調査の成果からも間違いなさそうである。
15世紀、堯恵が訪れた「国府」が実際はどこであったのか議論があるようだが、長野氏が陣を敷いていた地として不自然さはない。
山崎一氏がいうように「旧地形に拘束された不合理な城」は、戦国期以降、城郭としては放棄されたのかもしれないが、 総社神社の門前町としては栄えていたからこそ、諏訪氏が屋敷を構えたのではなかろうか。

遺構が残る御霊神社は、かなり幅の狭い道路が曲がりくねっている住宅地の奥まったところにある。 しかし、この「迷路」感が城跡としての名残であろう。 地名としても「〜屋敷」が残っており、城域北東部にある「諏訪屋敷」は文禄元年に諏訪氏が惣社に入部した際、居住した場所である可能性が高い。
今回はサッと通って踏査を終了してしまったが、じっくり歩けば、まだ城としての痕跡が発見できるかもしれない。


行き方 県道127号沿い、総社神社を目指す。そこから西側が城域。
駐車場御霊神社裏 路駐
撮影日2016年8月29日
更新日2016年11月13日
参考文献 『日本城郭大系』4
前橋市史編さん委員会『前橋市史』第一巻 前橋市、1971年
参考サイト城と古戦場
余湖くんのホームページ
城郭放浪記