小沢城
 おざわじょう

沼田市町田町



小沢城は応永12年(1405)、沼田氏8代景朝が荘田城(井土上町)から移り、小沢川と四釜川に挟まれた舌状台地に築いた城である。 永正16年(1519)に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城であった。
長享2年(1488)9月、京都五山の禅僧万里集九は、江戸を出て白井宿を通り、「三十日の午後、沼田舘に入る、鍛屋に宿る」と『梅花 無尽蔵』の中で記している。この「沼田舘」は年代の上から小沢城下であったと考えられる。
〔『沼田市史』・現地解説板〕

【左】沼田平八郎景義の墓  小沢城内にある。景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で、 沼田氏最後の主将。兄朝憲は13代城主となり、 景義は父顕泰、母ゆのみと川場村天神城に移る。
永禄12年(1569)正月ゆのみの兄金子美濃守らの策を用い、顕泰は朝憲を天神城に招き謀殺した。 このため沼田城兵に攻められ天神城を焼き、尾瀬を越え会津城主芦名氏の許へ走る。ゆのみは凍死。顕泰も会津て客死した。
景義は後、勢多郡女渕城に移る。その間沼田城は、上杉謙信没後、北条氏邦が奪い、さらに真田昌幸が所領。
景義は12年後の天正9年(1581)3月挙兵し、城奪還直前の同月14日昌幸の謀略に乗った伯父金子に欺かれ、 沼田城内水の手郭に入り金子らに 殺害された。
昌幸は甲府より来て首実検し、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸をここに葬り沼田大明神として祀る。また法善庵(のち法城院)を 建て霊を弔う。〔現地解説板〕

『小沢城要図』

【左上】東側中央の土塁A  『大系』によると小沢城には内堀とそれに伴う土塁があり、現在の法城院を中心とした位置に内郭が 存在していたという。要図に示した土塁Aは北東隅部分の残骸と思われる。土塁Bは南東隅部分と思われる。
【右上】法城院北側  土塁Aから続く内堀・土塁のライン上であるが、遺構は残っていない。城内の西側はほとんど耕作地になっている ため、その関係で土塁は崩され堀は埋められたと思われる。

【左上】北側虎口  この東側に空堀の折もあり、ここが大手口と思われる。現在東側にも入口が3箇所あるが、法城院が建てられた後に 造られたものと思われる。また、西側にも2箇所土塁の切れ目があるが、北側は不明、南側は『大系』の縄張り図には無く、耕作地に 入るためのものであろう。
【右上】北側空堀  北東部分の規模が最も大きく、上幅は約10m、内側土塁上までの高さは約8m。

【左上】西側空堀  隣は中学校の敷地になっているため、かなり破壊・改変されているが、城側の土塁は元の状態と思われる。
【右上】東側残存空堀  要図でCと示した部分。東側空堀は道路の敷設でほとんど消滅してしまっているようだ。また、道路の反対側 には四釜川が深い谷を造っているため、天然の堀となって南側から東側を防御している。


〜感想〜
内堀部分が消滅してしまっているのが残念だが、外堀の規模の大きさは見ごたえがある。鎌倉・南北朝期に沼田氏は一族を 沼田地域の各地に分家させて支配の安定化をはかっていた。沼田氏は荘田沼の水田地帯に館を構えていたのだが、防御性を 考えて小沢城に移ったと思われる。
『梅花無尽蔵』では小沢城のことを「沼田舘」と呼んでおり、城下町もあったことが窺える。ここが沼田地域の中心地として栄えたので あろう。


行き方 国道17号硯田町交差点から県道265号を北上、薄根中学校、法城院を目指す
駐車場法城院内の駐車場借用 10台以上
撮影日2008年10月
更新日2008年11月19日
参考文献 『日本城郭大系』4
『沼田市史』1995年
参考サイト