高津戸城
 たかつどじょう

みどり市大間々町高津戸



―史料からみた高津戸城―

高津戸城は承徳・康和年間(1097〜1104)頃、山田七郎平吉之によって築かれたという伝承があるが定かではない。
また、近世成立の軍記物には里見兄弟の悲話が伝えられているものの伝承の域をでない。
確実な史料では、天正7年(1579)5月6日付、由良国繁宛の北条氏政書状に登場する。同年3月、上杉謙信死去後に勃発した跡目相続争い(御館の乱)において、北条家から謙信の養子となった上杉景虎が景勝に敗れ自害した。
北条氏は上野国の領有を宣言し、従属していた由良氏へ新たに知行を宛行った。前述した書状はその際に発給されたものである。
その内容は、深沢五覧田・高津戸・善・赤堀の各城の管轄を由良氏へ新たに委ねたものとなっている。高津戸城の部分には、今回遺恨なく開城したとのこと、詳細はわからないが明き城であるから、昔から(由良氏が)かかわっていた地であるので任せ置く、と書かれている。
これ以前、深沢城主の阿久沢氏が本領として持っていたが、御館の乱によって上野国内における上杉氏の影響力が消滅したことにより、阿久沢氏の所領は本拠である深沢も含めて由良氏に宛行われる形となった。
しかし、天正12年(1584)に由良氏が北条氏から離反すると、阿久沢氏は北条方へついた。北条氏は由良勢の籠る五覧田城の攻略に成功した際の知行宛行約諾として阿久沢氏へ朱印状を発給したが、その中に高津戸の地が入っている。
同年中に阿久沢氏は五覧田城の攻略に成功したため、高津戸城は阿久沢氏のものとなり、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めまで使用されていたものと考えられる。

【上】高津戸城
西側からの眺め。城域北側から西側直下にかけて渡良瀬川が流れており、天然の防御ラインとなっている。現在、城内は公園化され散策路が整備されている。また、南側麓に公園駐車場があり、主郭までは徒歩5分程度で行ける。

高津戸城縄張図(現地案内板)

【左上】二の郭下
駐車場は現地案内板で「三の丸」とされている部分で、そこから北へ尾根上を登っていくこととなる。散策路が整備されているため、迷わず主郭部へ行くことができる。主郭から南へのびる緩やかな尾根上に、郭を階段状に配置していく縄張りとなっている。

【右上】主郭
東西約40mで周囲に腰郭が廻らされている。現在、要害神社が建っている。

「要害神社はその昔、金比羅宮と呼ばれ、自音寺第七世の住職高海上人が四国の金比羅宮に参籠していた時、不思議にも夢中に金比羅神王の尊容を拝した。また、要害山の山姿が象頭山に似ていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。この金比羅宮(現在要害神社)は霊験あらたかで近郷近在の老若男女の参拝者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録にのこされている」(現地案内板より)

【左上】主郭北東側の堀切
主郭から北東方向へ続く尾根には三条の小規模な堀切が確認できる。

【右上】城域南東側の横堀
駐車場からさらに南の尾根上に遺構は確認できない。しかし、東側には堀跡らしき窪みが確認できることから、当時は城域東側に堀が廻らされていた可能性がある。



【左】西側の眺め
大間々の市街地が見渡せる。


―感想―

天正2〜3年、、桐生領は上杉氏と由良・北条氏との間で争奪戦が繰り広げられた。桐生城は由良方の拠点となっていたが、その北から西側にかけての山岳地帯(仁田山地域)から、渡良瀬川の上流部である黒川谷が主戦場となっていた。その中で高津戸城が使用されていた可能性が高い。
元々は阿久沢氏の所領と考えられるため、その後ろ盾であった上杉氏によって現在みられる縄張りに普請されたのではないか。



行き方 大間々駅より県道338号を東へ。渡良瀬川を渡ってみどり市役所大間々地区第十四区集会所を左折。道なりに約1q、高津戸公園内。
駐車場公園駐車場 10台以上
撮影日2012年7月
更新日2015年10月31日
参考文献 『日本城郭大系』4
『大間々町誌』通史編上巻(大間々町誌刊行委員会、1990年)
高橋浩昭「東上野の地域権力と後北条氏」(『ぐんま史料研究』6、1996年)
黒田基樹「桐生佐野氏と阿久沢氏の研究」(同著『戦国大名と外様国衆』戎光祥出版、2015年、初出1997年)
大貫茂紀「戦国期「境目」地域の成立と維持―東上野地域と阿久沢氏を中心に―」(『日本歴史』795号、2014年)
参考サイト城郭放浪記」 「余湖くんのホームページ
群馬県埋蔵文化財調査事業団 群馬の遺跡・出土品 高津戸城