武居城
 たけいじょう

東筑摩郡朝日村西洗馬



鎌倉時代末期、洗馬荘に新補地頭として入って来た三村氏が築いた城で、16世紀初頭に本拠を芦の田 (妙義山城・釜井館)に移すまで重要な城であったという。〔現地解説板〕
しかし、現在残る遺構は戦国時代末期の様相を伝えており、「小笠原貞慶が木曽氏に備えるために改修した」〔『朝日村誌』〕 説や「武田勝頼時代に在地衆に対する監視の城として築城した」〔三島正之「武居城をめぐって」〕説などがある。

【左】武居城 東側より  山地から北へのびた尾根先端のピークを中心に位置している。『朝日村誌』によると この尾根を南へ登っていくと、詰城と考えられる「重ね城」、さらに標高1700mの地点に「天ヶ城」があり、 この尾根は三村氏が木曽氏と深く関わっていた頃の木曽への逃げ道と推定している。

『武居城案内図』


【左上】竪堀と横堀土塁  武居城西側斜面に広がる竪堀群はその開始地点の横堀土塁部分を削って横堀と連結している。
【右上】北西側 二重堀切  かなり高低差のある二重堀切だが、間隔は非常に狭いため、堀間の土塁上は自然地形のままである。 内側堀切の西側は横堀、さらに西斜面へ竪堀となって分岐する。
麓に下っている尾根はこの北西側と東側にあり、双方ともに二重堀切が使用されており、末端は竪堀となっている。


【左上】二の郭西側腰郭  横堀と帯郭、二の郭をつなぐ役割を果たしていたと思われる。
【中上】帯郭  主郭下を西から北を回って東の虎口へと取り巻いている。
【右上】主郭  帯郭から主郭へは登坂になっているが、平入り虎口である。主郭は明治時代に開墾され耕作地となっていた ようなので、枡形があった可能性もある。また、土塁も現在は確認できない。


【左上】北方面の眺め  樹木に覆われているため視界が悪いが、間からは正面を流れる鎖川とその段丘が見える。
【中上】主郭より二の郭方面  南側が尾根続きのため、二の郭と土塁、さらに最も大きな堀切を配置している。
【右上】二の郭南側堀切  両端は竪堀となって下っている。この堀切の先は自然地形の尾根が80m程続いた後、登り斜面と なる。


〜感想〜
主要な部分は公園として整備されており歩きやすい。ただ、三の郭周辺などは整備対象外となっており、夏は藪の中であるのが残念。 現在の登山道である「鵜飼いの清水」からの道は水の手道であったと思われ、大手道は東側の三の郭から尾根上を下りていく ものと思われる。

築城主体、目的について、三島氏は「西側斜面の竪堀群は横堀が始点となっており、山梨県の 白山城などに見られる武田氏による築城の特徴と考えられる。 松本平南西隅の選地と城の規模が小さいことから、境目の城というよりも在地衆に対する監視の城として機能した のだろう」と推定されている。また、「勝頼が長篠・設楽原の戦いの敗戦後、 新府城を始めとする支城網の再構築の一環として築城された可能性もある」 とされている。〔三島正之「武居城をめぐって」〕
ただ、在地衆に対する監視の城としては、かなり普請に力が入りすぎていないだろうか。支城網の再構築としてならば、やはり 選地が違う気がする。
『朝日村誌』では武居城の正面を流れる鎖川に沿って上流へ登り、峠を越えて現在の木祖村へと通じる街道に注目し、 木曽氏と対立していた小笠原貞慶が武居城を改修して使用したと推定している。
木曽へと通じる街道筋を押さえるならば、やはり現在の中山道筋を押さえる 妙義山城を使用するほうが妥当と思われるのだが、 そちらには改修の形跡は感じられない。
いずれにしても奥まった場所にあるこの城が戦国末期に使用されたのは遺構を見ても確かなようである。 縄張りとしては松本平地域の小笠原氏による城と比較して、三島氏の指摘する通り武田氏によるものとするほうが妥当と思われる。 なぜ武居城を選んだのかという疑問はまだ納得がいかないが・・・


行き方県道292号、西洗馬集落に入ると 武居城公園の案内板があり、そこを南へ入る。
案内板通りに約300m。駐車場より主郭まで徒歩約10分。
駐車場公園駐車場 10台
撮影日2006年8月
参考文献 朝日村村誌刊行会編『朝日村誌』下巻 朝日村村誌刊行委員会 1991年
塩尻市誌編纂委員会編『塩尻市誌』第2巻歴史 塩尻市 1995年
三島正之「小笠原領域の山城と武田氏」『中世城郭研究』第2号 中世城郭研究会 1988年
三島正之「武居城をめぐって」『中世城郭研究』第3号 中世城郭研究会 1989年
三島正之「塩尻市南部の山城」『中世城郭研究』第7号 中世城郭研究会 1993年
参考サイト城と古戦場
馬念の城跡探訪