上尾城
あげおじょう

長野市信更町上尾



東信濃で栄えた滋野系望月氏の子孫布施氏が応仁年間(1467〜69)に更級郡西山地方に勢力を伸ばし、山平林の 上尾山上に居住して平林姓を名乗ったのが、平林氏の最初であるという。
その後、平林氏は村上氏、そして武田氏へと属した。信玄の時代に平林正家は 牧之島城の副将となったが、永禄12年 (1569)の北条氏との戦いで討死した。その子正恒は上尾城に居住していたが、勝頼の命令で牧之島城に移り住んだ。
天正10年(1582)に織田信長勢によって同城は攻められ、いったん上尾城に退いたが、再び奪い返し、その後は上杉景勝に 属し、会津への転封により白河小峯城へ移った。
【上】上尾城 南東側より主郭方面  奥の林の中に主郭がある。東面は犀川へつながる断崖となっており、 地続きの南東側は堀によって防御している。

『上尾城要図』



【左上】城域西側 主郭への道  現在更府小学校前の道を東へ少し登ると神社へ向かう道が通っている。この道は主郭の西側を 回り込んで、北側まで続いている。左側は比高差10m程の 急斜面、右側には現在民家があるが主郭から堀を隔てて二の郭以降の城域がこちら側に続いていたようである。
【中上】主郭南側の堀  主郭土塁上から堀底まで最大で約5mの高さがある堀が東側断崖から西側まで続いている。 西側は浅くなっているが道の造成などによって改変を受けていると思われる。写真左側が主郭への登り口。
【右上】主郭南側より堀底  二の郭と考えられる現在民家になっている郭は低い位置にある。だが、東側は次第に高くなっていき、 ピークの公民館付近は「狼煙台」といわれている。〔『長野市誌』〕

【左上】主郭  約20×45m。土塁に囲まれており、南北に虎口と思われる土塁の切れ目がある。
【右上】北側虎口より  直下に横堀が確認でき、その先には削平地が先端部まで続いている。道を通している為かなり改変されているようだ。

【左上】北側郭より主郭方面  南側から比べるとだいぶ切岸の高さも低く堀も浅い。
【右上】西側の眺め  現在主郭からは樹木の為見通しがきかない。手前に更府小学校が見えるが、ここは「二ノ城」と 呼ばれていたという。背後の山は犀川対岸にある飯網山。


〜感想〜
上尾城は犀川の段丘崖先端部を利用した城で、おそらく現在民家となっている南東部にも数条の堀を配して連郭式に いくつかの郭があったと思われる。伊那地方では天竜川流域にこのタイプの城が多く見られるが、この地方では比較的 珍しい。同じく犀川の段丘崖先端を利用した牧之島城はこの上流約6qの所に位置する。
『長野市誌』でも指摘されているが、隣接して犀川流域と善光寺平を結ぶ道が通っているため、その交通を押さえるために造られたと思われる。
現在の遺構は堀・土塁の規模、城域の広さからみて武田氏支配以降のものと思われ、武田氏は松本方面から上尾城・ 和田城を経由しての 塩崎城への道や、 さらに北上する柏鉢城方面への道を利用していたのではないだろうか。


行き方 更府小学校前の道、東側の登り坂途中に左に入る細い道があり、そこから徒歩約5分。
駐車場坂を登ったところの待避所 1台
撮影日2007年2月
更新日2007年3月5日
参考文献 『日本城郭大系』8
長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
参考サイト