赤須城あかずじょう![]() 赤須城は南北朝時代、船山城を拠点に発展した片切(片桐)氏の分流で、 片切孫三郎為幸がこの地に居城を 構え、赤須氏を称したとされる。発掘調査によっても南北朝、室町期以降の城ということが裏付け られた。 天正10年織田軍の伊那侵攻によって、赤須城も廃城となった。
【上】天竜川より赤須城 段丘上先端部に位置し、南側は宮沢川、北側は田沢川の浸食谷によって、 遮断されている。 『赤須城要図』![]() ![]() ![]() 【左上】二の郭より本郭の土塁、空堀 現在、本郭、二の郭、添郭はマレットゴルフ場と化している。 さらに舗装道が段丘下との連絡道として城域を貫通している。主郭部の土塁は僅かに残っている。 【中上】本郭より外城 城域先端部の外城は本郭以西の部分より低くなる。現在本郭との間に 舗装道が通っているが、他の郭同様、堀切があったと思われる。 【右上】本郭より天竜川方面 樹木で視界が遮られてしまっているが、かなり見通しの利く場所である。 ![]() ![]() ![]() 【左上】本郭より二の郭、出郭方面 道の両側が郭となる。 【中上】二の郭土塁 西側には規模の大きい土塁が残る。 【右上】二の郭と出郭間の堀切 この堀切から北側下の長春寺へと下りる道が付いている。船山城と 似たような造りであり、築城当初の大手道か。 ![]() ![]() ![]() 【左上】長春寺 この付近には根小屋があったと考えられている。 【中上】北側斜面の竪堀 堀切からそのまま竪堀となっており、長春寺へ行く道から確認できる。 【右上】添郭 内部はマレットゴルフ場だが、周りを囲む土塁は大きく、上面は平場となっている。 添郭の西側には茶の城、伴城平といわれる城域が続いている。北側部分には巨大な堀切が確認できるが、 東側は耕作地となっており、旧状は留めていないようである。 〜感想〜 天竜川西岸段丘上に連なる巨大な城の一つであるが、武田氏が関与したと思われる 松岡城、 船山城、 飯島城などのように「伝三日月堀跡」というようなものはない。 ただ、伊那における武田氏の拠点である高遠城から 飯田城間を結ぶ中継基地としての場所にはふさわしいと思われる。 添郭を囲む土塁は北側が平場になっており、二段構造と言ってもいいくらいの広さを持つ。 わずかに土塁の形跡がある外城や本郭などよりも二の郭、さらに添郭のほうが、巨大な土塁を持っている ことは興味深い。 |