荒城

あらじょう

《別名》 新城・大熊新城




荒城は文明18年(1486)6月頃に、諏訪継満によって築城されたことが、「諏訪御符礼之古書」 に書かれている。
文明の内訌(干沢城参照) により継満は伊那(高遠)へと逃れたが、翌16年に小笠原政貞、知久、笠原 、諏訪継宗などの援軍と共に、杖突峠を越えて攻め入り、 片山古城(武居城)を整備して立て籠もった。
惣領家側は干沢城に陣取り、小笠原長朝、光政が安曇、筑摩二郡の軍勢で味方に加わり、片山の 向城(大熊城か)に陣取って、包囲する形をとった。
この時の勝敗は不明だが、両者の和解が成立し、継満は荒城の築城、御射山御頭への参加が行われ、 旧大祝継満が諏訪へ復帰するための足がかりとしたものと考えられている。
その後、武田信玄が諏訪へ侵攻した時、 荒城は高遠頼継によって利用され、頼継の敗北とともに廃城に なったと思われる。
【上】荒城北西側より  東側を権現沢川、西側を唐沢川によって挟まれた、やせ尾根上に 位置する。権現沢川の東側尾根裏には諏訪大社上社がある。

<場所>諏訪市湖南
<行き方>県道16号大熊信号の西側の交差点を入り、観音堂の前を通って 中央道をくぐる。
左折して墓地を通り過ぎてから、約200m先左側、bU4送電線鉄塔保守道の登り口を登っていく。
<駐車場>墓地脇の駐車スペース 2台
<撮影日>2006年2月
<参考文献>『諏訪市史』上巻 原始・古代・中世 1995年


【左上】荒城への道  尾根先端下部の墓地のところから、このような削れた堀状の道?が 続いている。山道が侵食によって削られた自然のものであろうか。
荒城は上部と下部の二ヶ所にわかれているようだが、下部の遺構ははっきりしなかった。おそらく 保守道から尾根に登りきった所付近と思われる。そこから尾根上を登り、鉄塔の手前付近が上部の 主城部分となる。登り口から主城部まで約40分。
【右上】主郭  やせ尾根上に三つの主要な郭が並んでいる。北端、一番下部が主郭と思われ、 背後の部分が一段高くなっている。また、前面部には4段の腰郭が 確認できる。

【左上】二の郭  細長い地形に制約された郭である。郭群の東側下に道が通っている。
【右上】堀切  城域背後の堀切はこの1条のみである。


〜感想〜
継満による高遠側からの出城という関係で、標高1000m付近に主城がある。下部の遺構との間には 虎口跡と思われる遺構がある。
諏訪地方側からすれば、ほとんど利用価値が無い城で、継満の後から高遠頼継の時代までは ほとんど使用されなかったのではないか。

(荒城のある山はいたる所に入山禁止の看板が立っているので、冬場限定で行ったほうがよさそうです。)


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