有賀城

あるがじょう




有賀(あるが)城は古代より諏訪と伊那谷を結ぶ交通の要所であった有賀峠の登り口に位置する。
諏訪氏の支族である有賀氏が鎌倉時代初期の承久年間(1219〜22)にここに入り築かれた城である といわれる。
武田氏の支配が諏訪地方におよび、天文17年(1548)、有賀氏ら西方衆は信玄と争うが敗退し、 追放された。有賀氏の支族花岡氏のいた花岡城は廃城に、有賀城には原美濃守が入城し、 しばらく後に武田方に協力した千野靭負尉に与えられた。
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)、再興した諏訪氏の再入部にあたり、千野丹波守房清が入った。 麓には「丹波屋敷」の地名が残り、江音寺は千野家の菩提寺である。

<場所>諏訪市豊田
<行き方>県道16号豊田有賀信号西へ
約500m先江音寺入口を左折 江音寺の裏山
<駐車場>江音寺駐車場10台
<撮影日>2003年12月
<参考文献>『日本城郭大系』8


有賀城は江音寺(こういんじ)の背後にあり、西側の谷には有賀峠への道がはしっている。
登り口は寺の東側と西側にあり、冠木門の建っている所が東側。
主郭までどちらからも約10分。
左の写真は東側の入り口。

左上 主郭背後の堀切と土塁  土塁の高さは堀の底から約15m程あり、かなりの規模である。
右上 主郭背後の南側郭  主郭の背後は3条の堀切があり、竪堀となって落ちていく。その間に 小さい郭があり、上には不動尊が祀ってある。

左上 主郭  南側に5m高の土塁があり東西にも回り込んでいる。土塁内側に石垣が二段確認できるが、 土塁上の石碑(秋葉権現)の祭祀の為である可能性もあり、城の遺構かは不明である。
右上 土塁上より主郭  東西20m、南北約37mの長方形である。よく整備されており、 郭上の木は見通しが利くほどに切って、遺構には看板を付け、 説明板も要所にあり、山城初心者でも判りやすくなっている。さすがは諏訪市!これくらいの整備が 適当なところだと思う。

左上 主郭より二の郭(副郭)を眺める  二の郭以降は主郭北側の尾根上にある。主郭東側 にも尾根があり、段郭が数段ある。
右上 二の郭南側の土塁  二の郭に土塁があるのも珍しいが、主郭との間に規模の大きな堀切が あるので、その土を盛ったのであろう。

左上 二の郭より三の郭方面  尾根上にだいたい同じくらいの大きさで五の郭まであり、その下には 段郭が続く。
右上 四の郭  奥が三の郭の切岸になる。3,4mの比高が各郭間にある。

左上 郭西側下の堀  現在は道のようになっているが、どうやら峠道からの防御としての空堀が、 あったようである。
右上 五の郭北側の段郭  ここから急な斜面になり、江音寺西側に下りていく。

左上 千野家老家墓地  江音寺西側裏の登り口にある。高島藩初代家老千野頼房は江音寺 をここに再興して、千野家の菩提寺とした。家老三之丸千野家歴代の墓地である。 三之丸とは高島城の三之丸に屋敷があったためそう呼ばれている。
右上 江音寺山門  天保14年に火災により焼失し、弘化2年(1845)から慶応元年(1865) にかけて現存する主要建物が再建された。

左上 寺の北東側下にある「丹波屋敷跡」 ここに千野丹波守房清の屋敷があったと思われ、地名として 「丹波屋敷」が残っており、発掘調査もされて、中世、近世の建築跡が数多く見つかったという。
右上 江音寺から高島城方面の眺め(望遠撮影)  諏訪湖が間近に迫り、北方面には高島城が はるか遠くに見える。
   


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