富士見城
 ふじみじょう

《別名》 大室城 小諸市諸



富士見城についての詳細は明らかではない。
大井光忠が長享元年(1487)に鍋蓋城(後の小諸城鍋蓋郭)を築き、 その子大井光為(光安)はその西に乙女城(白鶴城 後の小諸城二の丸)、さらに 七五三掛城等の中心城砦群を構築した。 その周辺地域に衛星城砦群を築き、北西方向には富士見城が築かれた。 天正13年(1585)徳川氏と上田城の真田氏との間に不和が生じ、徳川氏は上田城を攻める(第一次上田合戦) が、その時徳川家臣柴田七九郎康忠の陣城として利用されたといわれる。 〔『小諸市誌』〕
『大系』では「武田氏が小諸城を築いた時に支城として築かれたもの」かと推定している。
【上】富士見城 北東側より  現在は「飯綱山公園 歴史の広場」として整備されている。左隅に見える建物は小諸高原美術館。 手前の集落は後平。城の向こう側は障害物が何も無いため、千曲川に沿った平地部分が見通せる。

『富士見城鳥瞰図』


【左上】四の郭  南東から北西へ尾根が伸びており、主郭の前後に堀切がある。主郭背後の南東側にあるのが四の郭で、 郭内部を分割するように幅の広い土塁がある。
【中上】堀切  主郭と四の郭との間の堀切。かなり規模が大きいのだが、現地解説板によると過去に土採場だった為、少し変形しているという。
【右上】主郭  東側堀切に面して、やや高くなっている削平地があり、ここが最高所となる。西側に広い主郭部分があり、 二の郭、三の郭、その周囲に帯郭が取り巻く。

【左上】三の郭付近の石積み  主郭から三の郭下方まで郭周囲には石積みが確認できる。しかし、養蚕の最盛期には桑園として 利用され、麓から山頂近くまでの階段状につらなる削平地は礫を積み重ねて畑として利用したという。〔『信州の山城』〕
そのため城域の範囲、後世にどのくらい改変されたのか、いつ頃の石積みなのか判断できない。
【右上】南方面の眺め  大井氏時代の本拠小諸城はもちろん、西方の小県地方までを見下ろすことができる。 西方の物見には適した地である。


〜感想〜
まず驚くのが郭周囲を固めた石積みである。周辺の城でこれだけの石積みを持つ城は無かったと思う。 縄張り自体は連郭式で大井氏時代から基本的な部分は変化が無いと思われ、この時期には石積みも無かったのではないか。 主郭の南側虎口の部分がやや複雑な構造を持っているため、この付近は後に改修された可能性がある。
武田氏以前において富士見城に対してのみ、石積み、虎口付近の改修を行うということは考えがたい。
小諸城では武田氏滅亡後、織田氏家臣の森長一が入ったが本能寺の変により、すぐに北条氏が進出し、大導寺政繁を置いた。 だが、北条氏は徳川氏との戦いで講和し撤退した。
この天正10年(1582)の出来事から天正18年まで、武田家臣から 徳川家臣となった依田信蕃の子である松平康国が小諸城に在城する。この間は動乱期であり、上田真田氏やその背後の上杉氏 との間に緊張関係ができた時期で、柴田氏が陣城として利用したのもこの時である。 この前後に富士見城が改修された可能性はあると思われる。
しかし、後世の改変もかなり大きいため、どこまでが城遺構なのか判断が難しいところである。


行き方 「浅間サンライン」もしくは県道79号から小諸高原美術館方面へ
駐車場美術館 大駐車場
撮影日2006年8月
更新日2006年9月24日
参考文献 『日本城郭大系』8
小諸市誌編纂委員会編『小諸市誌』歴史篇(二) 小諸市教育委員会 1984年
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
参考サイト城と古戦場