福与城

ふくよじょう




この城の創設は鎌倉時代、幕府に仕えた藤沢氏が箕輪郷を中心にここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。
記録上の初見は天文11年(1542)以降の信玄の伊那攻略に関するものである。天文14年、信玄は 福与城を攻撃した。城主藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時、下伊那衆の小笠原、知久氏らの 援軍を求めて抵抗したが、和議によって開城した。そして城は放火破壊され、そのまま廃城になった。
<場所>上伊那郡箕輪町福与
<行き方>県道19号三日町信号南下 南小学校の先50m
案内板を左折 200m程坂を上ると左手にあり
<駐車場>10台
<撮影日>2003年12月
<参考文献>『日本城郭大系』8


車で県道から上ってくると 南城の南端に看板と駐車スペースがあり、畑の中を北へ歩く。
空堀を隔てた正面が主郭になる。(上の写真)
主郭の周囲南から西側に腰郭が巡らされている。

【左上】主郭と北城の間にある空堀  郭は空堀によってそれぞれ独立しており、空堀はかなり大きい。 現在は道が付けられており、二の郭と主郭の間の堀などはだいぶ埋められてしまったようである。
【中上】北城  高さは主郭よりも少し低いが、段丘上の先端部にあたり、普通ここが主郭の位置に なるが、福与城では少し違う。しかし、草創期には北城が主郭であったという説もある。
【右上】北城の西側にある腰郭  大手口はこの下方の二の郭下にあったという。これも珍しいパターンである。

【左上】北城より主郭方面  かなり規模が大きい事がわかる。二の郭が写真のさらに右側にある。
【右上】主郭より二の郭  左側が一段高くなっており、姫屋敷といわれている。
写真下方の道が空堀だった所であり、当時はかなり深く掘られていたであろう。


【左】二の郭より箕輪町中心方面の眺め
伊那谷を一望できる。反対側の山々は中央アルプスになる。

【左上】二の郭南側の空堀  【右上】主郭南側の空堀
上の堀は続いているもので、二の郭、主郭の南側を東西に横断して谷へ落ち込んでおり、 いわば大規模な堀切となって、段丘上の台地から主郭、二の郭、北城を遮断している。 この空堀の南側が南城、そして屋敷があった地が続く。

【左上】南城より乳母屋敷、権治郭方面  南城の真ん中付近から東方面を撮ったもの。南城自体は 自然の地形を利用したもので、現在は耕作地になっている為、だいたいの位置が確認できる程度である。
【右上】赤穂屋敷より権治郭、宗仙屋敷方面  城域東端にあたる赤穂屋敷から西側方面。 南城より一段高くなっており、東端の下は現在道が通っているが、空堀があったと思われる。


【左】城の北側「鎌倉沢」より城域を眺める
城域の北側には鎌倉沢、南側には南沢があり、断崖状になっていて、城の天然の防御をなしている。
鎌倉沢の断崖は高さ25m前後はあるだろう。



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