船山城

ふなやまじょう




船山城についての文献は存在しないが、所在地「片桐」と「平治物語」や「吾妻鏡」などに、 信濃武士として片切氏の名が見えるので、その居城であったとされている。
片切氏は清和源氏為公流で、名子城主名子氏、 大島城主大島氏らの分流を生んだといわれる。
武田氏の伊那侵攻後、片切氏は武田氏に属したが、天正10(1582)年の織田氏侵攻によって 没落し、船山城も廃城になったといわれる。
<場所>下伊那郡松川町上片桐、中川村片桐
<行き方>国道153号鶴部信号を上片桐駅方面へ
約1.5q先、瑞応寺へ右折
瑞応寺の先、御射山神社付近
<駐車場>御射山神社 3台
<撮影日>2005年5月
<参考文献>『日本城郭大系』8

【上】北側下より  天竜川の河岸段丘の先端を利用したもので、南側は南沢の谷、北は天神びらの 急斜面となっている。西から東に細長く突出した形状が、船を山上に置いてあるような形であることから、 船山城の呼称が起きたといわれる。

『船山城要図』



【左上】御射山神社  大手口北隅にある。鎌倉時代には諏訪社御頭役として、国内の地頭、御家人ら が祭祀の世話役となった。その関係で勧請された御射山神社であろう。 中世信濃国における諏訪社信仰の跡がうかがわれる。
【中上】大手口 堀跡北側  御射山神社西側に堀を利用した溜め池があり、その奥は堀跡がよくわかる。 堀底道となっており、「城坂」を下って城域北側下に行けたようだ。 溜め池は「三日月堀」と呼ばれているようだが、単なる堀切の 一部である。武田氏と船山城との関係が深かったため、武田氏の象徴として名が残ったのかもしれない。
【右上】大手口 堀跡南側  道を挟んで南側は耕作地となっているが、形跡は判断できる。

【左上】主郭付近より東側の眺め  西側の二つの郭はかなり広く、一面リンゴ畑。 この部分の郭、堀の規模は天竜川約10q下流の松岡城に匹敵する。 先に見える林が出丸部分。
【中上】主郭西側堀跡  畑のど真ん中のため、かなりわかりにくいが南側隅の方が形跡を残している。
【右上】出丸手前  ここには大規模な堀切が残る。この先、林に入ると急に山城の雰囲気となる。

【左上】出丸 西側土塁  出丸から先にも3条の堀切が確認できる。西側の郭と比べると小さく見えるが、 ここも東西80mくらいはある大きい郭だ。『大系』ではここを主郭とし、西側の郭を2、3の郭と している。だが、郭、堀の規模から、築城年代が異なると見た方が自然で、現地案内板 (西側二つは中世後期、出丸以東が前期)のほうが妥当と思われる。
【中上】東端部の郭  出丸から獣道状態の中を突き進んでくると広い所にでる。船山稲荷の社が あり、東西約40mの楕円形をしている。船山城初期の主郭だったのではないだろうか。
【右上】瑞応寺  御射山神社より約200m西にある寺で、この地方に見受けられる城域外郭部にある 城主の檀那寺と考えられる。



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