二ツ柳城
ふたつやなぎじょう

長野市篠ノ井二ツ柳



応永7年(1400)に守護小笠原長秀と信濃入部に抵抗した信濃国人衆(大文字一揆)とによる大塔合戦があった。
奥信濃の在地領主である市河興仙は守護方に付き、甥の市河六郎頼重が小笠原清忠の軍に加わり、二柳城において 戦功をつくして負傷したということが、小笠原長秀が市河興仙に宛てた軍忠状に見える。
二ツ柳城は大当集落とならんで、大塔合戦で守護勢が逃げ込んだ「大塔古要害」の比定地のひとつとされている。

【左】二ツ柳城 南側より  現在二ツ柳神社が建っている所が城域である。善光寺平を見下ろす丘陵地帯の中腹に位置する。

『二ツ柳城要図』



【左上】主郭部分  神社が建ったためにかなり改変されていると思われ、周囲は石垣で方形に固められている。
【中上】神社背後  土塁状の高まりと堀状の地形が確認できる。駐車場が新たにできたため、この部分も改変を受けたと 思われる。
【右上】神社背後  堀は道が通されているため、改変を受けていると思われる。その背後はさらに高度を上げていく が、中世に天台宗の「方田山大当院作見寺」が存在したと推定されている。現在周囲は耕作地となっている。


【左上】神社正面南側  約15mの比高差があり、西側から南側にかけて、黄金沢が深い谷を形成している。
【中上】神社南側下より東方面  南側黄金沢を渡った所は現在耕作地。大当集落はここから東方約1qの平坦地に位置する。
【右上】同所より南西方面  道の反対側が館跡と推定されている。写真右側後方に 赤沢城塩崎城がある。


〜感想〜
善光寺平に面した丘陵地帯の緩やかな斜面中腹部に位置し、自然地形をうまく利用してはいるが防御性は低い。
現在主郭周辺部の縄張りに関して、想像する材料もかなり乏しくなってしまっているが、黄金沢の侵食によって西側から南側にかけては 急斜面により防御性が高い。背後は神社正面よりも一段高くなっており、一部元々の地形だったと思われる部分も残る。 その背後には空堀が通っていたといわれるが、現在その痕跡は僅かながら確認できる程度である。


行き方 県道70号金剛院入口を入り、約600m先。
(県道からの入口はかなり狭いため、大きい車は進入が厳しいと思われます。)
駐車場神社背後 3台
撮影日2007年2月
更新日2007年3月28日
参考文献 『日本城郭大系』8
長野市誌編さん委員会編『長野市誌』第12巻 資料編 原始・古代・中世  長野市 1997年
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
参考サイト北緯36度付近の中世城郭