羽場城

はばじょう




小笠原貞宗が松本井川館へ移り 信濃守護となった貞和年間、貞宗の四男重次郎が羽場の地に入り 築城し、羽場姓を名乗ったという。
武田氏の伊那侵攻により小笠原氏が没落。柴河内守が入った。
その後近世に入り寛永13年(1636)、 高遠城主保科正之が出羽山形に移封すると、柴氏も移住し廃城となった。
<場所>上伊那郡辰野町羽場
<行き方>県道203号 JR飯田線踏切東側を北へ入る
手長神社付近
<駐車場>神社前 2台
<撮影日>2005年7月
<参考文献>篠田徳登『伊那の古城』伊那毎日新聞社 1971年

【上】天竜川より羽場城方面  南下してきた天竜川はここで90°方向を東へ変える。 その部分に城域がある。伊那地方で天竜川の断崖を利用した城の最北端であろう。

『羽場城要図』



【左上】手長神社  主郭部分にあたるところ。江戸期に居館として使用されていたのは、主郭のみだった と考えられている。
【右上】東側空堀  かなり規模は大きい。北側は天竜川を背にして他の三方を空堀が囲んでいる。

【左上】東郭内部  主郭の東側にも堀を挟んで郭がある。北東隅に塚のようなものがあるが櫓台または土塁の一部か。
【中上】西側空堀  西側は鉄道が城域内を貫通しており、破壊されてしまっているが、郭が 続いていたようである。
【右上】手長神社より南側  主郭を取り囲むように城域が広がっていたようで、土塁の残存が 所々ある。篠田氏の推論では豊臣政権下の文禄年間、飯田城主京極高知がこの地を知行していた時代に、 北方にある「古城」から 羽場城を現在の所に移したのだが、築城途中に国替えとなり、未完になったとする。


〜感想〜
主郭を囲む土塁、空堀は規模が大きく、戦国末期から近世初頭まで使用されていたというのは 納得できる。
南側外郭部の残存土塁外側の道を「堀道」と言って、 空堀があった可能性があるとのことだが、現状からは判断しがたい。



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