波田山城
 はたやまじょう

《別名》 波多城・波多山城・秋葉城 東筑摩郡波田町上波田



井川城に本拠を置いていた小笠原長朝は、文明12年(1480)、波多郷に古くより結びついていた 源姓波田氏の弱体化に伴って入り込んだ西牧・仁科氏を討って撃退させている。
そして直参の武将である櫛置(くしき)氏を派遣して地頭とし、 上波田に櫛木城(西光寺城)と波田山城を築き、 西牧氏および飛騨・木曽口へ備えとした。
その後、櫛置氏は大永4年(1524)頃、小笠原長時が防衛陣を東山方面へ移し、林城を 中心に南北に重臣を配備する必要から、小立野小池山城(生坂村小立野)へ移り、移った後の波田山城主として波田数馬を置いた。
塩尻峠の戦いの後、武田氏家臣 深志城(松本城)代日向大和守により 天文21年(1552)に破却されている。〔『波田町誌』〕
【上】櫛木城より波田山城  飛騨・木曽への街道を押さえる位置にあり、小笠原長朝が重臣の櫛置氏を派遣していることからも、 重要な城であったことがうかがえる。

『波田山城縄張図』


【左上】主郭  尾根上のピークに主郭の「本城」、堀切を挟んで北と南に「北城」「南城」の郭が並ぶ。その周囲の斜面には 大小の削平地群が取り囲む。
主郭は土塁で囲まれており、西側の土塁切れ目から馬出し状の虎口が確認できる。
【右上】主郭東側下の切岸、腰郭  切岸の規模は大きい。南東側には堀切と平行して竪堀が2条ある。


【左上】主郭北側堀切  主郭の南北にある堀切は竪堀となっており、比較的ゆるやかな斜面の横移動を防いでいる。
【中上】北城  土塁は確認できない。西側から北側にかけての腰郭は広く、「馬溜り」と呼ばれている部分もある。 ここから北尾根を下りていくルートが大手道といわれる。
【右上】南城  小振りの郭だが堀切で独立しており、高い位置にあって南方周囲を見通すことができる。 この先の尾根にも広い削平地が続いている。


〜感想〜
『波田町誌』では「小笠原氏の力で構築されたか、あるいは整備されたもの」「小笠原氏は延徳年間(1489〜92)頃に 井川城から山城の林城へ本拠を移しているが、波田山城もまた戦国初期の築城に成ったものであろう」としている。
三島氏の説に従えば、周囲を削平地群で囲むことによって防御をする縄張りは、その頃の形跡を残しているものと思われる。 そしてその後、戦国末期、小笠原貞慶が松本に入った時期に、堀切、竪堀、虎口等の改修を行った可能性がある。
伝承では文化年間(1804〜17)に近くの若澤寺造営の際に、城の石垣を取り壊し使用したともいわれ〔現地解説板〕 小笠原貞慶による石垣が存在していたのかもしれない。


行き方波田神社、田村堂より若澤寺跡方面の 案内板に従って南へ林道を約1.5q。
若澤寺跡手前100m付近東側へ遊歩道が有り、そこから徒歩約15分で波田山城。 (案内板有り)
(2006年8月現在、梅雨時の豪雨の影響で林道がかなり荒れていました。
最低地上高のない普通車では通れない可能性があります。)
駐車場遊歩道入口 路駐スペース有り
撮影日2006年8月
参考文献 波田町誌編纂委員会編『波田町誌』歴史現代編 波田町 1983年
三島正之「丹生子城をめぐって」『信濃』第41巻11号 信濃史学会 1989年
三島正之「塩尻市南部の山城」『中世城郭研究』第7号 中世城郭研究会 1993年
参考サイト城と古戦場
馬念の城跡探訪