平賀城

ひらかじょう




平賀城は佐久地方南部を支配していた平賀氏の居城である。平賀氏は鎌倉幕府の有力な御家人となって 中央で活躍していたが、佐久では応永7年(1400)に信濃守護の小笠原長秀と、これに反対する 在地勢力の平賀、伴野、田口氏らが争い、そのため小笠原氏系の大井氏と平賀氏が争うことになる。
文安3年(1446)以降平賀氏は史料から名前が消える。この時、平賀氏は滅亡したと考えられている。
その後は大井氏の代官が在城するが、その大井氏の宗家も文明16年(1484)に滅亡し、天文9年(1540) 以降、平賀城は武田氏のものとなった。
<場所>佐久市平賀
<行き方>国道254号平賀上宿信号南へ入る。 200m先突き当たりを左折 350m先突き当たり左折
50m先大手口
<駐車場>大手口前に1台 または大林寺駐車場を利用
<撮影日>2004年1月
<参考文献>『日本城郭大系』8


【左上】大手口  城域の南西側にあり、大林寺山と平賀城のある尾根の落ち込んだ間にあたる。
【右上】大手口上より佐久市街方面  写真右手の山が大林寺山でここも砦となっていた。ちょうど大手口を 佐久市街より塞ぐ形で位置しており、守りを堅くしている。

【左上】平賀城主郭のある山  大手口より東方向に尾根を登っていくと、そこにも削平地が段郭状に 確認できる。約5分程で一旦平地の開けた所にでる。
右側は現在宅地開発が進められており、遺構が消滅するのも時間の問題かと危惧してしまう。
【中上】そのまま主郭のある山へ向かって行き、登り始めた所から西方向を見た写真。奥の右側の山が 大林寺山砦。手前がアべニュー佐久平、宅地開発途中。
【右上】段郭  現在は主郭まで登山道が整備されており、直通で行けるが、冬であれば段郭の中を歩きまわるのがオススメ。
無数の段郭が山の周りを取り巻いており、石積みもかなり見られる。

【左上】主郭西側下の段郭の中にある石組み  最初、湧き水が出ていた所と思ったが、近、現代の炭焼き釜かもしれない。
【中上、右上】主郭南下の断崖  同じ佐久平東側にある内山城志賀城と同じ雰囲気で、十数メートル の岩場断崖が行く手を阻む。下方部分には岩場を利用した郭があり、石積みと組み合わせてうまく造っている。

【左上】三の郭虎口下の石積み  ここは現在登山道というか遊歩道が整備されており、その時に積み直した ものであろう。道の脇を見ると所々このように路肩を固めているのが確認できる。
【中上】三の郭  主郭から三の郭までが山の頂上にあり、周りは岩場断崖である。
大手口からまっすぐにここまで来ると15分程かかるが、急な登りは無く緩やかな道を歩くことになる。
【右上】二の郭  奥に見える切岸の上が主郭となる。

【左上】主郭  現在は公園化されて整備が行き届いている。二の郭との間にある切岸部分に石積みが 見られるが、積み方を見ると後世のものであると思われる。
【中上】搦め手郭  主郭から搦め手(南東側)へ下りてくると搦め手郭というやや広い郭がある。
【右上】搦め手郭より主郭方面  主郭の南側から岩場に道が付いており、200m程歩くと搦め手郭に到着する。

【左上】城域の最も東の部分  搦め手郭からさらに東へ下りると、ここに来る。位置的にここが搦め手郭と 思ったのだが、案内板はここには何も無い。後世のものであろうか。この郭のさらに東側は谷となって おり、城域は終わりと思われる。
【右上】左上郭の手前にある道下の石積み  搦め手郭からの道を東に行き、左上の郭手前の土橋状の道 下にあるものであるが、この道は後世に付けたもののように思われる。あまりにも整然としているし、 ここに石積みをする必然性も感じない。
しかし、平賀城はこのような広い腰郭が多数あり、屋敷なども一緒にあったのであろうか。防御のための 郭とは違う感じである。

【左上、中上、右上】城の東から南側にかけての段郭、石積み
こちら側も多数の郭があり、石積みも各所に見られる。

【左上】城の北東側部分  こちら側は比較的腰郭が少ない。しかし、石積みはいくつも確認できる。
【中上】大林寺山砦  大手口から見た砦。大手口は谷津の奥にあり、その北側がこの砦。 比高はそれほど高くはないが、大手口を守る重要な位置にある。
【右上】砦山頂部  谷津側に段郭が確認できるが、下方は耕作地、住宅地になってしまっている。

【左上】城の北側より大林寺砦方面  大手口の反対側になり、こちら側の麓に大林寺がある。 平賀城の登山口はこちら側にもあり、段々畑の中を登っていく道である。
【右上】内山城を眺める   平賀城からは山の陰になってしまって見えないが、国道254号のあたりまで、 出てくると見える。谷を挟んで向かい合う位置関係。この谷を東進すると内山峠を越えて、上野国に出る。


大林寺山砦まで含めるとかなり城域は広い。そして多数の腰郭で防御を固めているのが特徴である。
地形にもよることであろうが、堀切、土塁がほとんど確認できなかったのも珍しいことだ。
武田氏の手に入ってからも、信玄は内山城の方を重要視していたようであるから、 あまり手を加えてはいないであろう。
その為古い形態を残したままで残っていたのであろうか・・・



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