平倉城
ひらくらじょう

《別名》 小谷城・白米城 長野県北安曇郡小谷村中谷


―史料からみた平倉城―
武田晴信(信玄)は弘治2年(1556)5月16日、久保平五郎に感状を送っている(甲州市・窪田家文書〈『戦武』500〉)。晴信は「信州平倉岳」において杉山左門を討取ったことを賞している。

翌弘治3年5月10日には、田原主馬之丞・小谷衆に感状を送っている(「信府感状記」〈『戦武』559〉)。そこには「今日10日、飯森十郎の軍が平倉岳へ立て籠もったので、近辺へ放火したという報告があったが、そのまますぐに城攻めしなさい。先陣を勤め忠功に励むことが重要である」と書かれている。

同年7月11日付で、武田氏は小谷城(平倉城)攻めの際の感状を多く発給している(『戦武』564〜571)。そこには、同月5日に戦闘があり、落城したことが記されている。

後世の史料だが、千野靱負尉が自分の戦功を書き記した「御目安」(諏訪市・千野家文書〈『戦武』549〉)には、弘治3年の平倉城攻めの事と考えられる記事がある。要約すると「小谷城が落城した時、堀際でせいいっぱい弓を射ていた。板垣がこの様子を上層部へ詳しく申上げた。駒井高白斎の取次で深志城の(武田信玄との)御対面所へ召し出され、比類ない働きであったということで褒美を頂いた」とある。文中の板垣は信憲のことか。

元亀2年(1571)6月12日、武田氏は小谷衆18人に対して、関所の通行手形である「過所」を発給した(小谷村・細野家文書〈『戦武』1723〉)小谷筋一帯はこの頃、武田氏の勢力下に入っていたことが窺える。

武田氏滅亡後、この付近は北から上杉景勝、南から木曽義昌のちに小笠原貞慶が侵攻し、両者の戦場となった。
天正10年(1582)7月頃には、上杉勢が優勢だったようで、前線において指揮していた西方房家と楠川将綱は、「小谷之地」において、小谷の人質はすべて取ったこと・仁科衆は沢渡氏をはじめとして人質を差出すと言ってきている、と直江兼続へ報告している(上杉家文書〈『上』2443〉)

しかし、その後は小笠原貞慶軍が優勢だった。天正11年(1583)2月16日、貞慶は家臣の犬飼半左衛門に書状を送っているが、その中で「小谷へは細萱河内守を遣わした」ことを書き記している(「御書集」笠系大成附録〈『大町』185〉)

同年9月14日、上杉軍の西方房家は山田甚右衛門尉に対して、黒倉分を知行地として宛行っている(小谷村・太田清輝氏所蔵〈『上』2839〉)黒倉平倉城の東麓の村であることから、当時、上杉方がここまで進軍していた可能性がある。

天正13年(1585)8月1日、小笠原貞慶は先の山田甚右衛門に対して、小谷の内から15貫文・池田の内から15貫文を宛行っている(同前〈『信』巻16、p339〉)。小谷については黒倉が含まれていた可能性が高い。

『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、『上越』(文書番号)…『上越市史』別編上杉氏文書集、『大町』(文書番号)…『大町市史』第二巻原始・古代・中世資料、『信』…『信濃史料』


【上】立山中腹からみた平倉城
平倉城の南側からの眺め。南北に尾根が続いており、城域は山頂部から南方へ約400mにわたって存在する。そのほかに東麓からの登山道途中に所々遺構が確認できる。


地誌関係の諸本にも目を通してみると…
「信府統記」第十八の「来馬平倉山古城地」項では、立地・歴史・小谷七騎のことを長文で説明している。
以下、歴史の部分を要約する。
「応永(1394〜1428)の頃、城主飯森山城守平朝臣盛照という者が住んでいた。彼は小谷地域を領していたので、当城を小谷の城という。但し、小谷は七ヶ村ある〈来馬・石坂・千国・中谷・土谷・大網・深原〉。その後何代目であろうか、飯森日向守春盛〈別説に十郎ともいう〉というものが居た〈春盛は仁科氏の子孫の中から飯森家を継いだのであろう〉。弘治2年、武田晴信がこの城を攻めた。その時先手の山県三郎兵衛に攻めさせた。旗本をはじめとして諸勢は越後の上杉輝虎が後詰に来るだろうと考え〈飯森春盛は輝虎の幕下に属しているため〉、押し立てた。山県の下で働いていた曲淵庄左衛門は城主を討取ろうと、鎧の毛色に注目して飯森春盛を見つけ出し、宣言通り討取ったという」
ざっとこのようなことが書かれている。
武田氏の城攻めを弘治2年としているが、これは上記の信頼性の高い史料から判断すると弘治3年の誤りであろう。

明治初期の官撰地誌編纂事業による調査記録『長野縣町村誌』では、城域の説明のあと、「天文の頃(1532〜55)飯森日向守春盛平倉城を築き、その後すぐに武田信玄に滅ぼされる。この時弘治2年であった」と説明している。「信府統記」を参照したと思われ、ここでも弘治2年としている。

『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)も「信府統記」の内容を要約している。

『大系』では「現在の白馬村神城飯森の一夜山城に居城していた飯森春盛が武田氏の武将山県昌景の攻撃にあって敗走し、この城に逃れた。しかし、この城は兵糧や水に恵まれなかったため、籠城もままならず、弘治3年7月に小谷衆の一人、山岸豊後らの援軍もむなしく落城し、城主春盛以下が討死したという」と書かれている。
この情報の典拠は不明である。

『平倉城縄張図』


―立地―
平倉城の西側直下には姫川が北上し、南側は中谷川の流れが姫川に合流している。その対岸には立山が聳えているため、宮本で近世千国街道と別れた千国古道は、立山南麓の石原から東へ大きく迂回し、大峯峠を越えて高町―深原―地蔵峠方面へと続き、糸魚川方面へ向かう。
中谷川沿いの道を東へ行くと、小谷温泉を経て越後関山方面へ向かうことができる。
また、北西方向には来馬城が姫川対岸に位置しており、平倉城から眼下に確認できる。
東側麓はなだらかな南向き斜面となっており、黒倉集落や清水山集落が広がっている。


―アクセスルート―
【左上】黒倉集落内の道
国道148号、小谷温泉入口信号を東へ入り、県道114号を進む。二つ目のトンネル「白岩隧道」を抜けて約200m先を左折。中谷川の橋を渡ってT字路を左折すると黒倉集落へ入る。

【右上】平倉城 「遊歩道入口」
集落を過ぎて山の中へ入った所、左側に標柱が立つ。右側に駐車スペースあり。
私が行った日は工事車両で満車だったため、集落手前の「切った屋敷」案内板のところの駐車スペースに停めた。
数分歩けばここに来る。また、【写真左】の奥にみえる公民館のところから入った沢沿いにも道が付いている。

【左上】平倉神社
宮坂武男氏によると、元々は平倉城内にあった社を集落の人が下へおろしたとのこと。
城内に残る案内板によると「落城後何年か後、黒倉部落の人達によって飯森十郎を平倉十郎と呼び、平倉様として祀り、穀物の神である倉稲魂神をも併せ祀って部落の繁栄を祈っている。毎年五月五日にお祭りが行なわれる」と書かれている。

【右上】平倉神社裏の沢
この橋を渡ると本格的な山登りとなる。公民館のところから入って、沢沿いに登ってきた道もここで合流する。登山道はしっかりついている。
切った屋敷から平倉山頂上まで、約1時間の登山。

―現況―
【左】登り始め部分
杉林の中を登っていくと、右手が階段状になっている。1970年代の航空写真をみると北側一帯は田地だったようだが、戦国期にはどのような状況だったのか気になるところである。

この先、急な上り坂が続く。

【左上】登山途中にある高圧線鉄塔
鉄塔建設によってだいぶ破壊されているだろうが、その手前には堀切があることから、郭の存在が想定できる。
東側に突き出た尾根先端部であることから、東方面の監視と登城道の押えとして機能していたと考えられる。

【右上】鉄塔脇に残る土塁か
登山道と向き合う西側に土塁らしきものが確認できる。

【左上】鉄塔のところから東側の眺め
なだらかな南斜面が続いている。その先、肉眼で確認するのは難しいが中谷川沿いに稲葉城がある。

【右上】秋葉社のある郭 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
平倉山東側尾根のつけ根部分にあたる。数段の郭が確認でき、黒倉からの侵入に備えた郭群であろう。

【左上】南尾根への道から秋葉社方面 A
登山道は秋葉社の所まで登ると、南へ平行移動して主要部である南尾根へ連絡している。針葉樹の繁っているところが秋葉社のある郭群。

【右上】南尾根最大の郭 B
秋葉社から南尾根へ平行移動するとこの郭に出る。約40×20m。東南方向に大きく3段の郭があり、一番下になる。
一段上(写真では右上)が平倉神社跡。

【左上】山頂に向かう道より見た上段の郭 C
山頂に向かう道は郭の西側から北へ一直線についている。すぐに岩盤を削ったような堀切がある。
この先、急なやせ尾根をイッキに登る。西側は姫川へ落ち込む急斜面のため、高所恐怖症の人は注意。

【右上】平倉山山頂 D
標高823m(現地の標柱には824mと書かれている)。南北に続くやせ尾根のため、ここに郭は設けられない。この先も50m程やせ尾根が続き、また急激な下りとなる。途中に堀切らしき遺構が確認できる。
宮坂氏によると山頂にある大きな穴は「首かくしの洞穴」と呼ばれているらしい。
肉眼では周囲の景色を見ることができるが、樹木が生い茂っているため写真は無理な状況。

【左上】南尾根「坪根の平(局屋敷)」上段の郭 E
『小谷村誌』では「主郭の南西50mほど下方、坪根の平と呼ばれるあたりにも三段の長方形の郭を設けてあり、その下方の一条のくぼ地は空濠であったかも知れない。坪根の平は別に局屋敷とも言われており、女性たちの居住区と考えられないこともない」と推測している。
この郭群の内部は起伏が多く縄張図を描く人によって色々と解釈が分かれるところ。
郭中央部に虎口が確認できる。また、郭東部分の土塁について、宮坂氏は櫓台と解釈している。確かに坪根の平区域でもっとも高所に位置し、虎口部分にもなっていることから推測すると、妥当だと思われる。

【右上】「坪根の平」中段の郭 F
郭中央部に穴があいている。この郭群では最も広い空間。

【左上】「坪根の平」下段の郭 G
中段の郭から撮影。土塁で囲まれているが中央と西側に虎口がある。中央は破壊されてできたものか。

【右上】「坪根の平」から南方面 H
虎口を出た所は平場となっているが、堀切を経てやせ尾根が約70m続き、小山状の峰がある。
その先は急激な下り斜面となる。峰が城域の南端であろう。

【左上】「坪根の平」下部の平場 I
両サイドから堀切が普請されているが、埋もれてしまったためかかなり浅い。

【右上】東麓からみた平倉城
南尾根郭群のある稜線がはっきりみえる。

―感想―
「信府統記」には南尾根を下る道があって、大手と言い伝えていたことが書かれている。
杉本好文氏は現在の黒倉からの登山道が大手と推測しているが、判断し難い。
何れにしても、根小屋が黒倉だったことは間違いないであろう。

西から南側にかけては姫川・中谷川によって守られているため、立地からすると南方の敵に対して備えた城といえる。

飯森氏については、『大系』に解説されているように、白馬村の一夜山城を本拠としていたが、武田氏来襲によって敗走し、平倉城に立て籠もったというのが通説である。『小谷村誌』もこの説に従っている。
しかし、「信府統記」第十八「飯森夜一夜山古城地」項を要約すると「平倉の城主飯森氏の持城で、この辺(白馬村)へ働きに来た時の陣城であろう。ここの者は飯森殿腰掛城の跡と言い伝えている」と書かれている。
杉本好文氏は「小谷城落城時の城主は、小谷の領主飯森日向守盛春で、飯森日向守十郎春盛とか平倉十郎とか言われている」として、一夜山城については触れていない。
「信府統記」の記述によれば、飯森氏は小谷を領していた一族であることから、平倉城を本拠としていたと考えるほうが自然であろう。
また、同族である仁科氏が武田方となって以降も飯森氏が上杉方についていたことは、平倉城の立地をみれば当然のことである。

一夜山城については現地踏査を行なっていないため断定的なことは言えないが、宮坂氏や三島氏の縄張図から判断すると、「信府統記」の記述通り、平倉城を本拠とした飯森氏が白馬村における出城として利用していた可能性が高いと考える。
したがって、弘治3年に武田氏が攻めてきた際、飯森氏は一夜山城まで出陣してきたのだが、状況が悪かったため本拠である平倉城へ撤退したと考えたほうがよいのではなかろうか。
しかし、三島氏は一夜山城について、天正11年以降、上杉景勝に対抗した小笠原貞慶が白馬の城郭整備を行なった際、新規に築城した城のひとつとしている。
この点については、現地踏査も含めて後日を期したい。


行き方 国道148号、小谷温泉入口信号を東へ入り、県道114号を進む。二つ目のトンネル「白岩隧道」を抜けて約200m先を左折。
中谷川の橋を渡ってT字路を左折すると黒倉集落へ入る。集落を抜けて山道に入ったところ、左側に「平倉城趾 遊歩道入口」の標柱あり。
山頂まで徒歩約1時間。
駐車場標柱の反対側 駐車スペース3台
撮影日2015年12月8日
更新日2016年1月19日
参考文献 『日本城郭大系』8
杉本好文「小谷城(平倉城)」(小穴芳実編『信濃の山城』郷土出版社、1988年)
『小谷村誌』歴史編(小谷村誌刊行委員会、1993年)
三島正之「長野県・白馬村の中世城郭」(『中世城郭研究』10、1996年)
三島正之「信越国境の防備―長野県小谷村の中世城郭―」(『中世城郭研究』11、1997年)
宮坂武男「平倉城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
参考サイト城と古戦場
ちえぞー!城行こまい
らんまる攻城戦記