干沢城

ひざわじょう



干沢(樋沢)城は諏訪上社 諏訪大祝の居館であった上社前宮の東隣に位置する山城である。
当時は宮川が山裾を流れており、そこから崖がそそり立った所に城が位置するという要害の地である。
古来諏訪氏は幼少の時「大祝(おおほうり)」として神に仕え、成人すると惣領として政権を握るという 構図になっていた。しかし康正2年(1456)祭政分離となり諏訪信満は惣領として桑原城を本拠とし、 宮川よりも東側を支配して政権を担当、諏訪頼満は大祝として宮川より西側を領して祭祀を司った。
頼満の子継満が大祝となっていた文明15年(1483)、信満の子惣領政満を倒して惣領の座をも 我が物にしようとし、政満一族を神殿(ごうどの 現在の前宮)に招待して酒宴を開き、その時殺害した。(文明の内訌
継満はすぐ干沢城に立てこもったが郡内の豪族達はこれを許さず、干沢城を攻撃し継満は敗れ高遠に落ちのびた。 翌年、継満は小笠原氏など伊那の豪族の力を借り、干沢城の北西に位置する武居城に籠もり、干沢城と対峙した。
しかし、その後は勝敗つかずに降伏か和睦によって帰参が成立したようである。
その後、天文11年(1542)に 武田信玄が諏訪に侵攻した時、 干沢城は武田勢と呼応する高遠勢に 占領され、安国寺付近は焼き尽くされるなど、戦乱に巻き込まれた城である。

<場所>茅野市宮川安国寺
<行き方>国道152号安国寺信号を安国寺へ
安国寺駐車場の交差点を右折し約300m
陸橋の桁下に墓があり、そこが登城口
<駐車場>登城口に4台
<撮影日>2003年10月、04年5月
<参考文献>『日本城郭大系』8
茅野市編『茅野市史』中巻 中世・近世
1987年
【左】杖突街道 宮川橋付近からの干沢城  左側の高い所が主郭で次第に尾根先端部に向かって 二の郭、三の郭、四の郭と低くなっていく。

【右上】登城口にある安国寺歴代住職の墓  足利幕府を開いた足利尊氏は全国66カ国に安国寺を造立した。 信濃国にはこの地に造られ、この墓所に歴代の住職の墓がある。
【右下】干沢城主郭  南北50m東西25m程の大きさで南北に走る尾根上に郭があり、これより北に二の郭、 三の郭、四の郭と続き各郭の間には一条の堀切がしてあり、それぞれの切岸は高さ5m前後の大規模な ものである。そして郭の東西下には帯郭が何重にもついて防備を固め、諏訪大祝家の居城らしい規模を誇っている。

【左上】主郭北側切岸  高さ4〜5mあり二の郭からの防御になっている。
【右上】主郭下の腰郭にある攻撃用の石積み  所々にこのような石積みが備えられていた。

【左上】主郭下腰郭、二の郭間の堀切  東側斜面を竪堀となって落ちていく。自然の地形を利用した かなり大規模なもので、上幅約15m、主郭下腰郭の切岸の高さ約15m。
【右上】二の郭から見た上原城方面  諏訪氏が惣領家と大祝家に分かれた後、対峙するようになり緊張状態が 続いたであろう。直線にしてわずか2qの距離である。二の郭には鉄塔があり、その為見晴らしが利く。

【左上】三の郭から見た二の郭切岸  高さ3m、長さ50m程はあるだろう、見事な切岸だ。
【右上】三の郭東下の石積み  石垣も所々残っており、ここら辺が一番見やすい。しかし 三の郭以北は熊笹に覆われてしまっており、状態を把握しにくい。


〜長林砦〜

長林砦は干沢城の南側尾根に位置しており、背後の監視もしくは比高が主郭よりも高いので 見張り台として使用されていたものであろうか。

【左上】砦下部  干沢城との間には配水タンクがあり、遺構は破壊されてしまったが、谷を 挟んで南の尾根に砦の削平地がある。下部の削平地には土塁がわずかに西側に確認できる。背後には 大規模な堀切がある。
【中上】砦中腹部  完全に藪の中で状態がよくわからない・・・尾根上の狭い削平地である。
【右上】砦上部  南側の比高が一番高い所。東側が開けていれば茅野市街が一望できそうだが、 視界は利かず。


〜諏訪大社上社前宮付近〜


【左上】干沢城西側 諏訪大社前宮より  干沢城西側には樋沢川が流れており、その谷に小町屋集落がある。 その上の方に前宮があり、ここは大祝の居館であった所である。 こちら側からも登り口があり三の郭下 に出て反対側の登り口まで道が続く。
【右上】諏訪大社前宮神殿(まえみやごうどの)  ここに大祝諏訪氏の居館があった。




【左】昔の参道  現在は前宮まで舗装道が通り駐車場まであるが、この道は小町屋集落の中を通る 人が2人並んで歩けないような細い道である。 
【中上】城の最先端北部  阿弥陀堂がありその後ろに急な崖が四の郭まで続く。
【右上】城の東側先端部  現在、耕作地になっているが当時はここを宮川が流れ、城の堀の役割をしていた。


【左上】諏訪氏安国寺御廟所  諏訪氏は頼重が信玄に滅ぼされて以来、頼重の叔父満隣(みつちか) は僧体となり、安国寺や竜雲寺等に潜んで再興の機会を待っていた。天文14年に満隣の第二子頼忠が 大祝となり、天正11年に徳川家康から旧領を安堵されるまで続いた。
この御廟所の碑は中央が満隣、脇に満隣の夫人、兄頼隆の供養墓碑があり、江戸時代に諏訪氏が建立したもの。
初代高島藩主諏訪頼忠の墓所は
上原城下の頼岳寺にあり、 二代目藩主以降は高島城下の温泉寺に移る。
【中上】干沢城 御廟所前より  手前の橋は国道152号で杖突峠を越え、高遠へ行く道である。手前が 主郭、そこから向こう側へ二の郭、三の郭と続く。
【右上】安国禅寺前 干沢城登城口へ行く道。 この付近で 高遠(諏訪)頼継と信玄との戦いがあり、頼継は 敗退して高遠へ敗走した。


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