一夜山城

いちやさんじょう

《別名》飯森城、飯森殿腰掛城、一夜塚城

長野県北安曇郡白馬村飯森

 史料からみた一夜山城

一夜山城に直接関係する史料はない。

○建久元年(1190)12月、六条院領であった信濃国千国荘内の小谷・飯森両政所は、滞納している御年貢布を早く納入するよう催促されている(「新見文書」〈『信』3‐420〉)
鎌倉時代以前、既に飯森が千国荘(現白馬・小谷村)内の中心地だったことがわかる。

○応永7年(1400)に信濃国内で勃発した大塔合戦のことを記した『信州大塔軍記』(『新編信濃史料叢書』第2巻)には、仁科盛房の配下として「飯森」という名がみえる。 『信州大塔軍記』は作成年代・作者ともに不明であるが、信濃守護小笠原氏と信濃の領主連合との間で行なわれた合戦の記録である。
室町期、飯森氏が仁科氏配下として存在したことが確認できる。おそらく飯森の地を本拠としていた一族であろう。

○弘治3年(1557)5月10日、武田晴信(信玄)は田原主馬之丞と小谷衆に対し「今日10日、飯森十郎が多勢で平倉岳へ立て籠もったので、近辺に放火したとの報告がきた。すぐに城へ攻撃をしかけなさい。周囲の様子は知っているであろうから、先陣を勤め忠功に励むことが重要である」と書状を送っている(「信府感状記」〈『戦武』559〉)
安曇郡へ侵攻してきた武田軍に対して、飯森氏が激しく抵抗し、武力衝突をしていたことが確認できる。平倉城参照)

○天正12年(1584)8月18日、上杉景勝と対立していた小笠原貞慶は、日岐丹波守・細萱河内守宛て書状の中で、更級郡牧嶋筋の調略にあたっていた飯森日向守ほか2名への伝言を指示している(笠系大成附録「御書集」〈『信』16‐205〉)
武田氏滅亡後、飯森一族もしくは名跡を継いだ者が春盛と同じく「日向守」を名乗り、小笠原氏配下で上杉軍と戦っていた。

★(略記号) 『戦武』(文書番号)…『戦国遺文』武田氏編、 『信』…『信濃史料』

【写真上】北西からみた一夜山城

背後の山地とは切り離された独立峰のやせ尾根上が城域。この尾根は盆地内へ向かって南西から北東へ突き出ているので、周囲の見晴らしが利くはずである(現況は樹木で見通しはあまりきかない)。


『一夜山城縄張図』


―地誌関係の諸本にみえる一夜山城―

「信府統記」では「飯森夜一夜山古城地」項において、平倉城主飯森氏の要害であり、飯森周辺で戦をする際の陣城であろう、と推測している。また、地元の者たちは「飯森殿腰掛城の跡」と言い伝えている、と記録している。

『長野縣町村誌』神城村の項に「一夜塚城址」として「永徳年中阿部貞任の孫、阿部駿河守平晴盛が仁科に来て築城した。名を飯森日向守と改め、安曇郡内の横沢・岩岡・大妻・氷室・飯森・雨降間(峯方)の六ヶ村を領地とした。…晴盛の子孫である飯森十郎義景は、天文年中に武田信玄の攻撃を防いだ。その後、中土村の平倉城に移り、姓を平倉と改めた。」と説明しているが、その典拠は不明である。

○『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)では、「飯森城」として「現在は一夜山城と言う。弘治年中平倉の城主飯森十郎春盛が籠って武田氏に抵抗した城である。一夜にして武田氏が落城させたため春盛は小谷へ退却した。」とする。

○『大系』では「飯森城」の項で、@弘治3年(1557)7月5日、平倉城で武田信玄の攻撃にあって討死した飯森十郎春盛が城主、A「信府統記」に「飯森殿腰掛城」とあるように、一時居城した程度であろうこと、B春盛は沢渡氏とともに信濃の名族仁科氏の支族であること、以上の3点を指摘している。


 立地

白馬村の盆地(四ヶ庄盆地または四ヶ庄平といわれる)内の独立峰、一夜山の山頂周辺部が城域である。南西から北東へやせ尾根が続く。標高約851m、麓からの比高は約120m。背後の山地には飯田城が指呼の間にある。


 アクセスルート


尾根北東側麓の入山口

城域には尾根の北東側と南西側麓、両側から入ることができる。こちらの北東側麓入山口がWEB上ではよく紹介されている。長谷寺東側の道(正面参道側)を北へ約130m行ったところ。ここから山頂まで約20分。


尾根南西側麓の入山口

白馬五竜スキー場の駐車場(エスカルプラザ第三駐車場)南側から入って行く。


 現況

@(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)

主郭北東側下の堀切

北東側麓から登り、山頂付近に近づくとやせ尾根が100m程続いている。 郭1の手前には写真のように切岸が行く手を阻む。堀切の痕跡もある。しかし、これより手前に堀切等の防御遺構は見あたらない。

A

郭1の内部

郭内部には「秋葉社」と「三尺坊」が祀られている。郭の三方が土塁で囲まれていることから、おそらく主郭であろう。

「秋葉社」の後ろ(写真中央)の土塁は上部がやや広く削平されており、北東側から登ってきた道が直下を通っていることから、守備用の施設があった可能性もある。

B

郭1の南西側虎口

土塁が開いているだけの平入り虎口であるため防御性は低い。この先、しばらく幅広い尾根上の平場(郭2)が続く。

C

郭1の内部(南西側虎口より)

西側(写真左手)に土塁が廻らされいるが、東側(写真右手)には無い。

D

郭2の内部

西側に土塁の痕跡と思われる盛土が確認できる。また、郭1から2にかけて、段差は小さいが西側に腰郭が続いている。

E

郭3の内部

土塁で囲まれているが内部はかなり狭い。現地案内板によると「馬屋跡」「馬かくし」として伝えられているという。

南西側直下に堀切があり、その先の尾根に遺構は見当たらない。したがって、南西側から登ってきた敵に対する防御の郭であろう。


南西側麓からの登り始め

「井戸跡」の案内板が立っているのだが、「跡」がどこにあるのか分からなかった。


一夜山城 東側からの眺め

西側背後は北アルプスの高い山々が連なっている。

一夜山城背後には飯田城、その南方には飯田秋葉山城がある。


長谷寺(ちょうこくじ)

曹洞宗。山号は示現山(じげんさん)。本尊十一面観音。飯森十郎日向守盛春夫妻が中興開基と伝えられている。

本堂・庫裡・山門は白馬村指定文化財。境内の老杉群は樹齢500年を越え、白馬村指定天然記念物になっている。本堂裏の庭園も美しい。


光姫供養塔

光姫(みつひめ)とは飯森春盛の妻。現地案内板によると、長谷寺は「光姫が大和国初瀬寺から本尊十一面観世音を移して建てたといわれ、光姫の位牌が残っている」という。

石塔の様式は各部位バラバラで、(現在は)寄せ集めて積み上げた状態になっている。


 感想

独立峰のため見晴らしは抜群だが籠城には適さない。遺構としては、堀切が城域の両端に各1条、そして土塁が郭を囲んでいるのが確認できる。やせ尾根上で両サイドは急斜面が続いていることから天然の要害であり、普請の必要性があまり無かったのかもしれない。

平倉城のページ「感想」で宿題となっていた一夜山城の歴史的位置付けについては、想定した通り飯森氏の南方における出城として問題ないであろう。

『白馬村誌』において荒井今朝一氏は、飯森氏について「盛春が平倉城に拠ったことからすれば、ごく近い一族であった沢渡氏の進出に伴って飯森氏の拠点が、次第に小谷方面に移動していたようにも思える」と推察している。沢渡氏との関係性に言及した点は興味深いが、関係史料が少ないため想像の域を出ない。

また、飯森地区周辺には城が密集しており、古代以来、白馬・小谷地域の中心地として栄えた場所であることを印象づける。しかし、各城の機能や関係性など、まだまだわからないことだらけである。


 参考情報

行き方 (北東側麓登口)国道148号、飯森入口信号を西へ入る。長谷寺の北側尾根筋に登山口あり
駐車場 長谷寺駐車場借用
撮影日 2016年12月4日
更新日 2017年2月26日
参考文献 北安曇郡役所発行『長野県精髄北安曇郡志』(1923年)の復刻版(千秋社、2000年)
児玉幸多・坪井清足編『日本城郭大系』第8巻 長野・山梨(新人物往来社、1980年)
三島正之「長野県・白馬村の中世城郭」(『中世城郭研究』10、1996年)
宮坂武男「一夜山城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編(戎光祥出版、2013年〈初出1999年〉)
「白馬の歩み」編纂委員会編『白馬の歩み(白馬村誌)』第二巻 社会環境編 上(白馬村、2000年)
参考サイト 城と古戦場
らんまる攻城戦記