飯田城
いいだじょう

《別名》 三本杉長姫城、六本杉長姫城 飯田市追手町



飯田城は室町時代、領主の坂西(ばんざい)氏が現在の場所に城を構えたとされている。
その後信玄による下伊那侵攻により、下伊那における中核の城として機能した。
文献上、飯田城の初見は天正10年(1582)2月14日織田軍の下伊那侵攻での「飯田の城」攻撃である。 (『信長公記』)
城は織田氏の手に移り、その後は城主の入れ替わりがはげしかったが、中世から明治維新まで存続した下伊那地方唯一の城 である。

【左】桜丸御門  三の丸内にあった門で通称「赤門」。宝暦4年(1754)の建立で藩主と町人、百姓との対面所として用いられた。 門全体が紅殻で赤く塗ってある。現在県合同庁舎前に移築保存されている。

【左上】長姫神社  東側舌状台地先端部に「山伏丸」、その西側が本丸となっていたが、現在本丸のあった場所には 長姫神社、柳田館、日夏館がある。西へさらに二の丸、三の丸が続き、各郭間には堀切があったという連郭式の平山城だった。
【中上】長姫神社裏側(北側)の土塁  この土塁は江戸期の絵図にも描かれており、明治期にも破壊されずに残った。
写真奥は「山伏丸」だった場所で、現在はホテルが建っている。
【右上】本丸、二の丸間の堀切南側  明治以降、堀はほとんど埋められ、この部分のみが残った。堀というより谷といった感じの 巨大さ。この南側麓には「水の手」地名があるため、堀底道が元々通っていて麓と連絡していたと思われる。


【左上】二の丸大通り、御用水路跡  美術館、消費生活センター、道路北側の住宅地一帯が二の丸跡になる。
美術館建設前の発掘調査で大通り、御用水路が発見され、本来の位置とは若干異なっているが美術館敷地内で復原 されている。
【中上】二の丸御門跡  現在の美術館の西端部に位置していた。門は廃城とともに市内松尾の木下家に 移築され、改変されてはいるが現存する。発掘調査によって確認された水路跡がラインによって示されている。
【右上】「山伏丸」南側下より  先端部に位置する出丸で築城前には山伏の修行所であった為、この名が付いている。

【左上】二の丸より南方面の眺め  松川が流れる段丘。約7q南西方向にある久米ヶ城が見える。
【右上】南東方面の眺め  天竜川の対岸には神之峰城が見える。


〜感想〜
江戸末期の最終的な飯田城の姿がここで紹介した遺構としてわずかに残っている。 豊臣政権下で城主となった京極高知の時代に、現在の飯田市街地の基礎となった城下町が造られたという。
二の丸の発掘調査で中世の古飯田城に関連する空堀跡、住居址が発見されたというが、武田氏時代の飯田城大手は 二の丸西側だったといわれる。
縄張りは連郭式の単純なものだが、明治維新まで使用されただけあって、現在残る堀の規模は巨大だ。市街地 のど真ん中にありながらも、僅かに残る遺構、赤門など見所はある。


行き方国道151号より 県合同庁舎案内標識を目当てに
駐車場長姫神社、美術館 10台以上
撮影日2003年7月、2006年2月
参考文献『日本城郭大系』8