飯島城

いいじまじょう

《別名》 本郷城




飯島城は船山城を本拠とした 片切氏の支族飯島氏によって築城された。飯島氏は飯島郷の地頭を していたが、武田氏が伊那に入って以降は武田氏に属し、天正10年(1582)織田氏の伊那侵攻 によって落城。城主飯島民部守、小太郎父子は高遠城 にて討死したという。

【左】「城山」より「本城」方面  「城山」は天竜川に面した城域東端にある独立した丘上の郭となっている。 城域西端に近い「本城」は写真一番奥の段丘上にあり、直線距離でも800m以上はあるだろう。城域は かなり広いが、年代によって使用域が異なっていた可能性が高い。
写真手前の田が「古城久保」という堀切で、「古城」「前ノ田」付近の耕作地が写っている。
現在国道153号は城域内部の「陣垣外」付近を南北に横断している。
<場所>上伊那郡飯島町本郷
<行き方>(本城)国道153号子生沢橋北側 西岸寺へ  山門より南へ200m T字路東へ150m
(城山)国道153号より西側旧道へ 子生沢川北側沿いの道へ入り東へ約400m先右側、まえのた橋を渡る
民家手前の沢沿いの道を天竜川方面へ約200m
<駐車場>(本城)西岸寺駐車場借用 30台
(城山)まえのた橋付近に路駐
<撮影日>2005年5月
<参考文献>『日本城郭大系』8、『飯島町誌』中巻

『飯島城要図』


〜城山付近〜


【左上】「古城」付近より「城山」  案内板も無く、耕作地脇の道を入ってくるので、かなりわかりにくい が城山には説明版が立っている。樹木によって天竜川は見通せないが、城山直下を流れる。
【右上】「古城久保」と「城山」  この城山から前の田付近が初期の城域と考えられており、 「古町」が城下町といったところか。国道開設時の発掘調査によって古町部分には古街道と 屋敷の境界と思われる溝が発掘された。
郭は堀切によって区画された単純な形をしているが、郭、堀切の規模はかなり大きい。


〜本城、登城付近〜


【左上】本城虎口  本城、登城は段丘崖上にあり、他の城域部とは連続性がやや薄い。
虎口は西面北側隅に面し、手前は大規模な堀によって防御されている。 登城、本城の間は沢を利用した堀で郭を独立させている。
【右上】本城内部より虎口方面  虎口を中心として西側、北側には大規模な土塁が残る。 手前の堀や土塁の規模からして武田氏やその後侵攻してきた織田、徳川氏等の手が入っている可能性がある。

【左上】本城内部  現在は耕作地となっている。
【中上】登城内部  段郭状になっており、東側下段に登城神社がある。南北は沢によって遮断されているが、 西側は耕作地と連続しているが当時は堀があった。登城北西部が大手と伝えられており、 登城から本城へと入ったのであろうか。

『町誌』によると本城と登城との間の堀中に「たつ山」と呼ばれる小山があり、そこを土台として木橋を架けて登城から 本城に入ったと考えられているようで、現在も「たつ山」は残っている。
また、明治11年の実測図では本城、登城の西側には二重の空堀が巡っており、相当な防御のための 普請が行われていたようである。三日月堀の地名が登城の虎口部分に残っている。
松岡城船山城 など天竜川西岸段丘上に ある城で、三日月堀の名が見られる城があるが、どれも丸馬出しをともなった堀があったとは 想定できないものである。だが、郭、堀の規模など武田氏が伊那を統治していた中世後期に 拡大、改修された形跡がある城で、武田氏との関連性が指摘できる城である。
【右上】西岸寺  本城の北西約500mの所にあり、鎌倉時代末に創建された。飯島氏とも 関係があったと考えられている。


本城、登城の部分に関しては、天正10年の織田軍侵攻時に最前基地が置かれ、その際築かれたという 説もあり、築城年代は定かではない。
『町誌』では古道が段丘下の城域を貫通する形で通り、屋敷跡も発掘された点や、西岸寺の位置などを 総合して、
●初期に飯島氏は西岸寺東側の「寺平」に館を構え、その後、軍事機能を分離させた最初の「本城、登城」 を築城した。
●武田氏支配の時代に街道が整備され、街道東側に「城山、古城、前の田」部分を 築き、街道を東西から挟み込む防御体制をつくり、天竜川を利用した水上輸送の基地にも利用した。
●織田軍の伊那侵攻時に、「本城、登城」を再整備・拡大した。
という仮説を立てている。
まだ、謎が多い巨大な城だけに、興味が尽きない城である。


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