飯山城
いいやまじょう

《別名》 飯山市飯山



―歴史―

飯山城はもともと常岩(常盤)牧一帯に住した泉氏の居城であった。のち上杉謙信の属城となり、永禄7年(1564)頃、武田信玄の侵攻に備え、本格的な築城にとりかかった。
天正6年(1578)3月、謙信が死去したのち、景勝と景虎との間で跡目相続争い(御館の乱)が勃発し、翌年には景勝が勝利した。飯山城は景勝に与した武田勝頼が領することとなった。その勝頼が織田・徳川連合軍に敗れた天正10年(1582)、一時期織田氏の軍勢が飯山城を占拠したが、織田信長が本能寺の変により死去すると、上杉景勝の支配するところとなった。
景勝は先の御館の乱で戦功のあった岩井信能を飯山城に入れ、同11年9月、信能は飯山城の修理を景勝より命じられている。
江戸時代に入ると、数多くの大名が入れ替わり領知することになり、享保2年(1717)以降は明治に至るまで本多氏が城主となった。

【上】本丸より千曲川方面の眺め 飯山城は千曲川左岸の独立丘陵上にある。周囲には水堀をめぐらし、さらに東側は千曲川が天然の防御となっていた。

【左上】二の丸より本丸虎口 【右上】本丸より虎口部分
石垣は本丸桝形虎口部分とその周辺にあり、近世初頭頃の築造とされている。
また、当初の飯山城は大手が北側にあったようだが、元禄年間(1688〜1704)の城主松平氏が南側に移したという。


【左】本丸 現在は葵神社の境内となっている。


―感想―

江戸時代以降も使用されていたため、戦国期の遺構がどの程度のものだったのか、不明な部分が多い。城下町を含めて近世の城として楽しむべきだろう。

【左上】復元城門 【右上】南中門跡の礎石
この門は市内丸山家に残されていた長屋門で、丸山家旧住居解体の際に市がここに移築した。どこにあった門なのかは不明だが、規模、構造は南中門にあわせて復元された。 礎石は平成4年に弓道場建設に伴う調査で発掘された。(2003年8月撮影)





行き方国道117号、市民会館の信号を入る
駐車場市民会館前に10台
撮影日2003年8月、2010年9月
参考文献『日本城郭大系』8