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![]() 平安末期、近衛家領として芋河荘が存在したことが『吾妻鏡』にみられる。 また、戸隠神社旧蔵の妙法蓮華経版木の奥書に 元亨2年(1322)5月日に「檀那芋河住次郎権守大仲臣盛家」とみえ、大中臣氏系統の人物が荘司として芋河に居住していたと 思われ、芋川氏の先祖とみられる。 荘園初期の館は現在の健翁寺の辺り、詰城としてその背後の山にある鼻見城が想定されている。その後、館をこの地に移し、 若宮城を詰城としたとされる。〔『日本歴史地名大系』〕 【左】館付近 館跡の西側に隣接して妙福寺がある。「芋川平」と呼ばれる開けた地のほぼ中央に位置し、 「ほりのうち」と称される地にある。館の西側には南北に飯山道が通り、その先西側の山頂に鼻見城がある。
【右上】北側土塁・堀跡 館跡は東西約80m、南北約90mの大きさと推定されている。
【右上】鼻見城山方面 若宮城が築城される以前の詰城といわれる。 〜感想〜 現在確認できる堀跡は北・西側それぞれ20m程なので、その延長部分は消滅してしまったようである。 しかし、これだけでも残存していればなかなか見ごたえはある。 「芋川平」と呼ばれていることからわかるように、牟礼方面から登ってくると、突然開けた高原状の地に出る。 そのど真ん中に館が位置しており、 芋川氏が荘司から在地領主として成長してきた過程において、この地に館を構えたと思われる。
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