稲葉城
いなばじょう

《別名》  長野県北安曇郡小谷村中谷


―史料からみた稲葉城―
稲葉城に直接関係する史料はない。

地誌関係の諸本では、『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)が稲葉城の項を立てており「三段よりなる方今石壁を存す、戦国の頃杉山右門なる者の拠りし所と伝ふ」と書かれている。
杉山右門の詳細は不明だが、弘治2年(1556)5月16日、久保平五郎宛ての武田晴信(信玄)感状(甲州市・窪田家文書〈『戦武』500〉)において、晴信は「信州平倉岳」において杉山左門を討取ったことを賞している。
おそらく『北安曇郡志』は、この杉山左門に関する伝承を収集したのではなかろうか。
『大系』では稲葉城の項で、「主郭15×3m、第二郭20×15m、第三郭は7×10mの三郭からなる。戦国時代、杉山右門の居城と伝えられる」と記しており、『北安曇郡志』を参照したと思われる。


【上】西側 街道沿いから見た稲葉城
写真中央部。ここでは尾根の西端部分だけ見えているが、城域はさらに東(写真右側)へと続いている。


『稲葉城縄張図』


―立地―
中谷川左岸、その谷へせり出した尾根上にある。南側の谷には稲葉沢が流れ、中谷川へ合流している。
中谷川に沿って街道が通っており、姫川・平倉城方面から小谷温泉を通って越後関山へと続く道である。
また、宮本で近世千国街道と別れた千国古道は、立山南麓の石原から東へ大きく迂回し、大峯峠を越えて稲葉城の西で中谷川を渡河し、高町―深原―地蔵峠方面へと続き、糸魚川へ向かっている。


―アクセスルート―
【左上】春待亭公園入口
国道148号、小谷温泉入口信号を東へ入り、県道114号を進む。中土郵便局を過ぎて約100m、左手にあるのが春待亭公園。
写真のところを入ると広い駐車場とトイレが設置されている。
ちょうどこの付近を千国古道が中谷川を渡河していたようで、右岸には中谷大宮諏訪神社がある。

【右上】稲葉城入口
公園から徒歩5分弱。尾根先端の麓に稲葉沢を渡る橋が架けられている。城域最高所まで約15分。


―現況―
【左上】尾根先端部の削平地と堀切 @(←番号は撮影位置〈縄張図参照〉)
稲葉沢を渡って九十九折りの道を登り尾根上に出ると、道沿いに削平があまい郭が確認できる。堀切もかなり埋まっている。

【右上】広大な郭2 A
郭4→郭3→郭2と3段続いており、それぞれ虎口が確認できる。郭2は東西約35m、南北約22mと城内で最も広い郭である。奥には(宮坂武男氏によると)秋葉社の石祠が祀られている。

【左上】郭2 東寄り B
写真奥の切岸の上には城域最高所である郭1がある。宮坂氏は郭1を主郭とし、三島氏は郭2を主郭とする。城の中枢部分といった意味では、この広大な郭2が主郭といえよう。

【右上】最高所の郭1 C
約14m四方の郭。西側には腰郭が数段付いているが埋没しかけている。東郭群へ行くには急斜面を一度下ることとなる。

【左上】北方の眺め D
郭1から中谷川と小谷温泉方面へ続く街道を見通すことができる。

【右上】郭5 E
尾根上の道を東へ下って来るとここに出る。奥は再びのぼり斜面となっており、南側に土塁が続いている。『小谷村誌』ではここを主郭と推定している。

【左上】城域の南側斜面 F
郭1から東郭群へ続く尾根は方向を南東へ変えているため、西郭群を視認できる。

【右上】郭5の南側土塁 G
ここをさらに登っていく。

【左上】堀切 1条目 H
城域東端は2条の堀切がある。

【右上】堀切 2条目 I
堀切北側は腰郭状(元は空堀か)になって1条目の堀切下を通り、谷へ下っている。


―感想―
三島正之氏は、郭5について「戦乱時に領民が避難するスペースとして設けられた」と推測している。
宮坂武男氏は郭1より東側は増築部分として、「ある時期に少し人数を増やして守る必要な時があり手を加えた」としており、さらに稲葉沢の水を確保するためにも必要だったことを指摘している。
使用用途については不明だが、いずれにしても郭1を境に西側と東側の郭群が異質な縄張であることは首肯できる。
東郭群については、弘治2・3年の武田氏侵攻に対する備えとして、飯森氏方によって普請された可能性があるが、判断し難い。

杉山氏が居城としたという伝承については、『北安曇郡志』が取り上げている。
「信府統記」では、戦国期に活躍した七家を取りあげて「小谷七騎」のことを「来馬平倉山古城地」の項で説明している(石坂村・細野2氏、来馬村・横沢氏、中谷村・太田2氏、土谷村・田原氏、同村・山田氏)
その中に杉山氏の名はない。
同書によると、彼等は各村の領主として飯森十郎春盛に属していたが、平倉城が武田氏に攻略された後、六騎は武田氏へ属し、それ以後は松本の領主に従ったため、現在(江戸時代になって)も松本の領主から合力米を宛行われているという。残る一騎山岸豊後という者で、越後上杉氏へ属して大所村にその子孫が居住する、と書かれている。

しかし、この「七騎」は「信府統記」が書かれた江戸時代にも残っていた家であり、戦国期に滅んだ家については記されていないことに注意すべきである。
おそらく由緒書と同様に、(事実かどうかは別として)自らの家が活躍していたことを伝承として残していたからこそ「小谷七騎」(の物語)が後世になって生まれたのであろう
実際に武田氏は元亀2年(1571)6月12日、小谷衆18人に対して、関所の通行手形である「過所」を発給している(小谷村・細野家文書〈『戦武』1723〉)。当時はそれだけ多くの在地小領主が小谷に存在していたのである。

杉山左門は武田晴信感状にわざわざ名前が記されるくらいの人物であり、平倉城に立て籠もっていたことからすると、同城主飯森氏の配下でも有力者だったと考えられる。
稲葉城に杉山氏の伝承が残っていることから推測すると、当城が杉山氏の本拠であった可能性がある。郭の広大さは同氏の勢力の大きさを裏付けるものとなるのではないか。


行き方 国道148号、小谷温泉入口信号を東へ入り、県道114号を進む。
中土郵便局を過ぎて約350m先、稲葉沢沿いの道を右折。沢を渡って尾根先端から登城。
駐車場春待亭公園 大駐車場
撮影日2015年12月8日
更新日2016年1月27日
参考文献 『日本城郭大系』8
『小谷村誌』歴史編(小谷村誌刊行委員会、1993年)
三島正之「信越国境の防備―長野県小谷村の中世城郭―」(『中世城郭研究』11、1997年)
宮坂武男「稲葉城」(同著『信濃の山城と館』第7巻安曇・木曽編 戎光祥出版、2013年)
参考サイトらんまる攻城戦記