稲荷山城いなりやまじょう![]() 稲荷山城の創始は明らかではなく、信玄が佐久侵攻の際に陣場として使用したのが記録にある。 武田氏滅亡後、徳川家康は柴田康忠を派遣してここを前進基地とさせ、松平家忠に城を修築させた。 天正18年、相木城にて徳川方に反抗し、失地回復の為挙兵した依田能登守、伴野刑部を 討伐に出た小諸城主松平康国は、 この城で陣容を整えて相木に向かったという。
【上】千曲川より稲荷山城方面 城の東側になり、約40mの断崖である。南北も急崖となっており、 西側がやや緩やかで佐久甲州往還が通っていた。 ![]() ![]() ![]() 【左上】稲荷社より本丸方面 城域北面に稲荷社があり、現在の城の名前の由来となっている。 ここからは佐久平が一望できる。その背後をさらに上へと登ると本丸があったであろう最高所に出る。 【中上】扇岡 城内最高所であるここは扇岡と呼ばれている。ここから南側一帯の削平地が本丸と思われる。 【右上】扇岡南側方面 現在は配水場が建っており、その先にロケットの形をした展望台がある。 ![]() ![]() ![]() 【左上】展望台より北側本丸の眺め 展望台は無料で階段を上ると周りが一望できる。 【中上】西側の眺め 段郭が続いており、斜面は西側のみが緩やかである。写真左奥の部分、城域の 南西隅に虎口があったというが、現在は宅地と耕作地によって確認できない。 【右上】北側の眺め 千曲川、佐久平が一望でき遠くには浅間山が見える。 ![]() ![]() ![]() 【左上】北東方向 平賀城 望遠撮影だが肉眼でも確認できる。 【中上】南側の眺め 佐久甲州往還が通っており、山間を縫って甲斐へとぬける。 【右上】北西の眺め 写真中央のやや丘状になっているところが岩尾城。 |