岩尾城いわおじょう![]() 岩尾城は文明年間(1469〜87)に大井氏によって築城された。岩尾大井氏は岩村田の 大井城の大井宗家 の親類衆の中でも最も有力な家であった。 文明16年(1484)に村上氏の攻撃を受け大井宗家は滅亡。その後佐久は武田氏と村上氏との抗争の 地となる。 天文12年(1543)、信玄によって岩尾城も落城し、真田幸隆に守らせたが、後には武田氏に 服従した大井氏が城主に戻った。 武田氏、織田氏が滅亡すると北条、徳川氏が佐久に侵入し、北条氏に従った岩尾城は徳川家康麾下の 依田信蕃の攻撃を受ける事になる。佐久の諸城を落としてきた信蕃は、岩尾城の激しい反撃にあい、 弟信幸と共に戦死した。 【左】城の西側より 北と南はそれぞれ湯川、千曲川による断崖となっており、西側において二つの 川は合流する。よって大手は東側となり、台郭という広大な郭が城域の最東部にひろがる。 ![]()
![]() ![]() 【左上】二の郭 現在は三島社の境内となっている。境内の東側下に三の郭、台郭、境内の西側上に主郭、 その背後に搦め手郭 となる。 【右上】三島社背後の主郭方面 1m程の段になっており、そこを上がると主郭。神社が建てられ遺構は 破壊された部分もあるが、各郭の位置関係はしっかり確認できる。 ![]() ![]() 【左上】主郭 各郭間には堀切があったらしいが、現在は二の郭下に一部確認できるのみ。 【右上】主郭背後の土塁 石積みが所々確認できる。この先が搦め手郭となる。 ![]() ![]() ![]() 【左上、中上】搦め手郭 主郭西側は搦め手郭があり、その先千曲川、湯川合流地点まで緩やかに下っていく。 【右上】搦め手郭から南側の眺め 千曲川の先に遠く前山城が望める。 ![]() ![]() 【左上】搦め手郭最西部 8m程の急斜面になっており、ここから合流地点まで約1q程。城域は もっと西まで続いていたかもしれないが、この先は畑となり、さらに宅地開発されている。琵琶島という地名がある。 【右上】城の東側 三の郭前の三ヶ月堀 三の郭の東側、台郭との間にあったようだが、現在は 道筋となってしまっている。背後が三の郭である。 ![]() ![]() 【左上】城の北側より 湯川と城の間の平地は現在宅地、耕作地となっているが、当時はここも城域であった かもしれない。崖は15m程はあるだろう。 【右上】城の南側より こちらは岩肌が露出しており、比高20m程の断崖。 南側は千曲川と耕作地が続く為、遠くからも確認できる城である。 |