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![]() 「甲陽軍鑑」では、永禄4年(1561)の戦いで、謙信がこの城を見下ろすことができる妻女山に陣を張ると、信玄はこの海津城へ入城し、八幡原における激戦へと発展していくストーリーが描かれている。 江戸時代に入ると城主の入れ替わりが激しかったが、元和8年(1622)に真田信之が10万石で入り、城名も正徳元年(1711)真田幸道以降、松代城と改められ現在に至る。 平成7年から太鼓門をはじめ堀、石垣、土塁等復元工事が行われ平成16年4月に 完成、一般公開が始まった。 ![]() 【左】本丸虎口 内桝形となっており、二の門(堀際)に棟門(橋詰門)、一の門に二層の櫓門(太鼓門) を置いているが、直交せず同軸線上にある。 門礎石はそのまま利用し、絵図面などから板葺き、切妻屋根の門を復元した。時を告げる太鼓を 備えていた為、太鼓門と呼ばれている。 内堀の発掘調査では折れた橋脚が多数発見され、橋の架け替えも4回以上行われていたことがわかった。災害の度に橋が崩落、破壊したという当時の史料を裏付けた。 復元された橋もこれらの橋脚や江戸時代末期の絵図面をもとに忠実に復元された。 背後に見える特徴的なシルエットの山は尼巌山で山頂に尼巌城がある。
【右上】虎口部分の堀
それほど広くはない本丸内部にめいっぱい御殿が建っていた。 しかし、度重なる水害の影響で、明和7年(1770)に城の南西に位置した「花の丸」に御殿を移した。
ここが一番の高台で現在石垣上に登れるのはここだけ。周りが一望できる。 【右上】櫓跡より北不明門 搦め手口になるがこちらは外桝形で、一の門、二の門が直交している。 外側は三の丸、写真奥側は「紅葉の馬場」とよばれている。
当初はすぐ外側に千曲川が流れていたが、五代藩主真田信安の時に、現在の川筋となる大工事を行い、旧川筋を外堀とした。 【右上】南東に続く土塁 本丸以外の曲輪は基本的に堀と土塁によって囲まれていたが、北西側土塁の一部が残存していただけであった。この付近が北西側だが、かなり手が加えられたらしくきれいな形に整えられている。
【右上】北不明門 一の門は櫓門、二の門は棟門で、大手より小振り。
本丸の北側が三の丸。かなりの広さだが、千曲川の水害の影響をもっとも受けやすい場所だったため、あまり大きな建物はなかったようである。 【右上】外堀跡 三の丸外側部分で「百間堀」とよばれた。現在は一部砂利を敷き詰めて位置を示している。
本丸西側の土塁にあり、三の丸と二の丸を結ぶ。幕末の城絵図を参照に造ったようだ。 【右上】東側より本丸大手口 本丸を囲む内堀は東、南、西側にあり、コの字型になっている。
東不明門とよばれ桝形は無かった。現在は何も復元されていない。 【右上】二の丸(東側) 二の丸は本丸の東、南、西側をコの字に囲んでおり、東側が一番広い。 復元工事が終了し、しばらくイベント会場として使用される模様。 ![]() 【左】東側外堀 ここも砂利を敷き詰めて位置を表している。 【下】海津城再現図 北側からの鳥瞰図 二の丸南側には丸馬出し、三日月堀があったが、現在は長野電鉄松代駅と線路によって消滅。 ![]() ―城下町― 城下町は城の南側に形成され、かつては総構えの土手があったという。 現在は真田邸、文武学校、横田武家屋敷など藩政時代の文化財が残存しており、城下町の面影を 残している。
城から南へ真田宝物館、真田邸と続いており、ここは江戸幕府が参勤交代の制度を緩めた時、当時の九代藩主幸教が母お貞の方の帰国後の住居として建てたもの。 部屋数が53室、庭は京都の公卿の庭園を模してつくられたという。屋敷内も拝観可能。 【右上】恩田木工民親(おんだもくたみちか)の像 宝暦7年(1757)真田家六代藩主幸弘に抜擢されて、41歳で家老職勝手掛となった。窮乏する藩財政の建て直し充実をはかり、優れた民政を行った人として名高い。真田邸前の公園にある。
八代藩主幸貫が佐久間象山等の意見を入れ、蘭学、西洋砲術を積極的に取り入れ、文武学校の建設を進めた。九代藩主幸教の時、嘉永6年(1853)に完成。 明治4年に廃藩閉鎖となるまで多くの人材を輩出。その後小学校の校舎などに使用され、昭和48年から大規模な修復工事が行われ昭和53年に完成。藩校の形を現在まで伝えている貴重な施設である。 真田邸の西隣りにあり、中もすべて拝観可能。 【右上】旧白井家表門 弘化3年(1846)の門で、平成12年に現在地へ移築した。 長屋門で背面に3つの居室を付設してある珍しいもの。白井家は松代藩中級武士であった。 文武学校の向かいにあり、現在は休憩所になっている。
白井家表門の対面にあり、真田家の分流の一つ。この家は約160年前に花の丸の長局を移築したもの。現在も住まわれているようだ。 【右上】旧横田家住宅 表門 天保13年(1842)の建築。横田家は松代藩の中級武士で幕末期の状態をそのまま伝える屋敷となっており重文指定されている。昭和64年から平成3年にかけて保存修理が行われ、現在は屋敷内を見学することができる。
寛政6年(1794)建築。二階がついているのが特徴的。塀の向こう側に庭園があり、隠居屋も主屋に並んである。 【右上】泉水路 屋敷内の東隅を南北に流れており、庭園にも引かれている。江戸時代にはこうした水路が城下を網目状に走っていたのであろう。
寛永元年(1624)にここに設けた。城下町の度重なる大火で類焼にあり、現在のものは享和元年(1801)に再建されたもの。 柵の中にあって近づけない・・・ 【右上】旧矢沢家表門 矢沢家といえば昌幸の代からの重臣。松代藩筆頭家老。さすがにこの門は他とは比べものにならないほど大きい。 ―長国寺― ![]() 真田幸隆開基の真田町にある 「長谷寺」から信之が松代移封となったときに、移転させて「長国寺」とした。 本堂裏手には初代藩主信之の霊屋(たまや)、四代藩主信弘の霊屋、歴代藩主墓所、恩田木工民親の墓などがある。 駐車場は有るが、国道403号から入って来る道が狭い。 時間を充分取って海津城に車を置いて、城下町を散策するのがオススメ。 【左】長国寺本堂 上に乗っている2つの鯱は海津城から移したものとの事。
もとは三代藩主幸道の霊屋だったもの。明治5年伽藍諸堂を焼失し、同19年本堂再建の際、この霊屋を本堂後ろに引き移して開山堂にあてた。 【右上】真田信之霊屋 信之没後二年目の万治3年(1660)に建立されたもの。かなり大きく豪華な造りだ。
四代藩主信弘の霊屋で、元文元年(1736)信弘死後直ちに建てられたもの。信之霊屋よりもこぢんまりした質素な感じである。どちらも門の外側からしか見られないが、寺の受付に行けば中まで案内してくれるらしい。歴代藩主墓所はさらに奥にある。 ![]() 【左】恩田木工民親の墓 境内北側の墓地の中、西隅にある。両隣も恩田家の人々の墓のようだ。高さ2m以上あるかなり立派なものだ。
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