唐崎山城
からさきやまじょう

《別名》 唐崎城・朝日山城・藤崎城 千曲市土口・生萱



至徳元年(1384)に信濃守護となった斯波義種は二宮氏泰を守護代とし、子の種氏を代官として下向させ、長野市平柴の守護所 に拠った。斯波氏が押領地の究明を強力に進めようとしたことに反発した国人領主村上頼国・小笠原清順・高梨朝高・長沼太郎らが、 同4年に挙兵し守護所を攻めた。この際、二宮方についた市河頼房は生仁(なまに)城に逃げたが、 村上頼国らに攻められ落城した。
応永7年(1400)の大塔合戦の際、村上満信に従軍した中に雨宮氏の支族である生身大和守の名がある。
3年後の応永10年、信濃国代官細川慈忠と、村上満信が生仁城で戦った。〔「市河文書」〕
唐崎山城の南西麓に生仁城という館跡があり、2度の「生仁城」を舞台とした戦いがどちらで行われたのかは不明であるが、 一体として機能していたと考えられる。〔『大系』〕
その後、生仁氏の名が見えるのは、永享12年(1440)の結城陣番帳で、以後記録には登場せず、 清野氏に滅ぼされたのではないかといわれている。〔『信州の山城』〕

【上】唐崎山城 南西側より  唐崎山山頂部に主郭があり、北西、南西に下る尾根上に郭を配している。  戦国期には千曲川が麓近くを流れていた。北西側に 「雨宮の渡し」跡の石碑が建っている。 生仁館跡は現在、宅地になっているようである。

『唐崎山城要図』


【左上】城域北西側より主郭方面  尾根先端部の麓から登山道が付いているが、車道として利用したのか3m幅くらいの道が造成されており、 西側を廻って主郭南下まで続いている。そのため城域西側部分はかなり改変されていると思われる。
【右上】主郭  約11m四方の方形で、東側から南側にかけて土塁が残る。その内側に井戸跡といわれる窪地がある。


【左上】主郭より北西尾根方面  高低差は少ないが階段状に郭が連なる。
【中上】南西側尾根方面  北西側よりもやや急な傾斜で下っており、同じように階段状に郭が連なる。
【右上】東側尾根方面  一度急斜面を下りた後、再び登りになる。はっきりとした堀切は確認できない。 こちらの尾根を登っていくと天城城につながっている。直線で約1.5qの距離。

【左上】西側 
屋代城の眺め  山腹からの眺め。 屋代城まで直線で約2q。こちら側の麓に「生仁城」があったようである。
【右上】赤沢城より唐崎山城付近の眺め  鞍骨城 から西側の尾根先端部に唐崎山城や鷲尾城がある。


〜感想〜
鞍骨城を中心とした支城群の中で唐崎山城は石積みを使用しておらず、堀切等の防御施設もかなり脆弱なのが特徴である。
戦国末期、南方約1.2qの鷲尾城を鞍骨城西側の中心に据え、唐崎山城はそれほど重要視されていなかったのであろうか。 ただ、鷲尾城と鞍骨城東側に位置する竹山城とは石積みの手法、 配置や尾根続きにある堀切の規模など縄張りがだいぶ異なっており、 唐崎山城を含め築城主体はそれぞれ別である可能性が高いことは指摘しておきたい。
唐崎山城は近年だいぶ改変されてしまっているようだが、鞍骨城等の城よりも古い形態をそのまま残しているように感じる。


行き方 西側麓の墓地脇より「天城山登山道」入口の案内板有り。そこから徒歩約12分。
駐車場墓地前 路駐スペース有り
撮影日2006年12月
更新日2007年2月18日
参考文献 『日本城郭大系』8
信濃史学会編『信州の山城』信毎書籍出版センター 1993年
参考サイト北緯36度付近の中世城郭」 「城と古戦場