霞ヶ城かすみがじょう![]() 別名手塚城といい、木曽義仲の家臣だった手塚太郎光盛の居館跡である。 光盛の兄が下社大祝金刺盛澄で、 木曽義仲は盛澄の娘の入り婿になったという説がある。 現在その場所は諏訪大社下社の一部と国民宿舎山王閣になっており、遺構はほとんど無いが地形にそれなりの 痕跡が認められる。
![]() ![]() 左上 秋宮南側にある八幡社の小山 ここが一番高台になっている。ここと山王閣の間に現在道が 通っているが、道が無かった頃は八幡社と山王閣部分はそのまま連続した面だったとのこと。 右上 八幡社より山王閣方面 遺構は無いが南側から西側にかけては急斜面で下っており、 下諏訪の町が一望できる。居館を構えるには申し分の無いところであろう。 山王閣の駐車場中央に金刺盛澄の銅像がある。盛澄は下社大祝で諏訪一帯の武士の頭領、 そして弓馬の達人でもあった。 下社大祝の居城は北方背後の尾根先端にある桜城である。 |