葛山城かつらやまじょう![]() 葛山(かつらやま)城はもともと地侍葛山衆の城で落合氏が城主であった。天文24年(1555)第2回の川中島の戦いの時、 武田軍の旭山城に対する付け城として、上杉謙信がこの城を整備、拡大したものと思われる。 これによって旭山城の機能は封殺され長期戦となった。結果、今川義元の仲介で和議となり、旭山城は 破脚された。 2年後の弘治3年2月、雪が深くて謙信、戸隠、飯縄神社の宗教勢力がまだ動けない時に、武田軍は 葛山城を急襲し落城させた。その知らせを聞き上杉軍も出陣、北信濃の武田勢力を押しまくり、旭山城を再建し長沼城へ帰った。 この第3回の川中島の戦いでは両軍の衝突は小規模なものだけで、上杉軍が引き上げた後は武田軍が 善光寺、戸隠社一帯をその勢力圏へと取り込んでいった。 ![]()
登山道が見つかれば、あとは案内板がしっかりついている。主郭まで30分弱。 左上 主郭 単郭でここを中心に東、西、北尾根上に郭群が広がっている。南側の旭山城に向いている部分が急斜面になっており、 西、北尾根はややなだらかで後方支援を受けやすくしていたのであろう。 旭山城の付け城としての役割りに適した地である。 ![]() ![]() 左上 主郭より旭山城と善光寺平の眺め 旭山城とは裾花川の谷を挟んで対している。 右上 主郭より大峰城方面の眺め 谷を挟んで反対側大峰城はここから北東方面に直線で1.5q程の所にある。 ![]() ![]() 左上 主郭より東側の郭群 クマザサに覆われてしまって状況がわかりずらい。道は南端を通っているので、 歩くのには支障はない。小郭が尾根上に続き、その間に堀切が続く。 右上 東側郭群の堀切 北側の急斜面へ向かって竪堀として落ちていく。南側は道で判断しにくいが、竪堀 として確認できるものもある。 ![]() ![]() 西側郭群 2条の堀切があり、東側の郭に比べると大きい郭が尾根上にいくつかあり、北側に腰郭が ある。 ![]() ![]() 左上 北側郭群 写真は主郭すぐ下の郭。ここから尾根上に堀切、郭が続く。 右上 南側麓の静松寺 信玄は静松寺の住持を通じて落合氏の切り崩しを城攻めする1年前から行っていた。 また、なかなか落ちない葛山城の弱点を静松寺の僧から聞き出して、水の手を絶って火を放ち落城させた という。 葛山城は数多くの郭、堀切を並べただけの単純な構造で、石垣、石塁も確認できなかった。 旭山城と比べると築城技術は見劣りがすると感じた。しかし、この城を付け城にしたおかげで 旭山城の力が封殺されてしまった事実は謙信の力を感じる。 |