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![]() 虚空蔵山城は、村上義清が武田氏の侵攻に備えて、天文11年(1542)頃から急いで築城した山城の一つと考えられている。 天正11年(1583)小県・更埴地域は徳川氏と上杉氏勢力との境目となっていた。 当時徳川方に属していた真田昌幸が上田城を築城を始めた時、 上杉景勝は島津左京亮を検使として、川中島四郡の将兵を虚空蔵山に集めたという。 【左】虚空蔵山城 南麓千曲川より 上田と埴科との境に位置する虚空蔵山からは、上田地方を一望に見下ろすことができる。 尾根上だけでなく、南麓の支尾根には飯綱城をはじめ、 和合城との間に持越城、燕城、物見城が並んでいる。 また、虚空蔵山の尾根を東へ行くと太郎山、東太郎山に通じており、その南麓支尾根上にも多くの城がある。 その最東端が砥石城となる。 ![]() ![]() ![]() 【左上】大堀切 主郭の西側にある堀切で、 高ツヤ城、鳥小屋城には見られない規模の大きさである。 【中上】虎口 この部分は高ツヤ城、鳥小屋城にも共通する自然の岩を利用した部分。 【右上】虚空蔵山頂 主郭から50m程東へ行ったところが山頂部分。完全な削平はなされておらず、自然地形といった感じだ。 ![]() ![]() ![]() 【左上】山頂より東方面 やせ尾根をさらに進んでいくと、太郎山へと続いている。案内板によると太郎山までは3.4q、約 2時間10分の道のり。 【中上】北東側の眺め 太郎山から北側へ続く尾根になる。手前が坂城、その尾根の向こう側は真田から松代へ続く道が通る。 【右上】南側の眺め 塩田平方面。正面平地部分が上田原の戦いがあった場所。 〜感想〜 物見としての機能は和合城で十分と思われるのだが、虚空蔵山、太郎山の尾根が郡界となっていることが影響しているのであろう。 村上義清がこのラインを死守しようとしていたことが、この周辺の城砦群の密度を見てもよくわかる。 ただ、個々の縄張りは簡単なものが多く、それは比高の大きさによる要害の地だからということが理由なのか、急ごしらえによるものであるのか・・・ 飯綱城、花古屋城などを見る限り、 時間的制約によるものではないと考えられる。 虚空蔵山城の縄張りは山頂より少し西側にある主郭を中心に両側に堀切を設け、北側10m程下ったところにも削平地がある。 ここは小屋がけの場所と推定されている。〔『室町・戦国時代の争乱』〕 戦国時代の文書では「虚空蔵山」「虚空蔵」という名は出てくるが、「虚空蔵山城」という名は出てこない。 また、「和合城」も同様であり、文書の指す地域は和合城を含めて、虚空蔵山城砦群全体の広域部分を指していたと考え られる。〔『日本城郭大系』8〕
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