小諸城こもろじょう![]() 小諸城の原型は信玄時代の縄張りであるが、それ以前平安から鎌倉時代に小室太郎三兼(木曽義仲の 武将)が現在の城の東側に館を築いていた。その後長亨元年(1487)に大井伊賀守光忠が小室氏の勢力を 押さえ鍋蓋城を築いた。この部分は後に鍋蓋郭とよばれた。光忠の子光為は支城として白鶴城(後の二の丸) 他支城を周辺に築いた。 天文23年(1554)武田信玄が侵攻し、この地が関東と信濃を結ぶ重要な地であることから、 鍋蓋城や支城を取り入れた大城郭を築いた。この縄張りを山本勘助、馬場信房が行ったという説がある。 その後、織田信長の武将滝川一益の所領となり、本能寺の変の後徳川家康の武将松平康国が城主になった。 天正18年仙石秀久が入り二の丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建てて現在に 至る小諸城が完成した。 城主はその後徳川、松平氏など入れ替わり、元禄15年(1702)に牧野氏が入ってから明治まで続いた。 『小諸城付近図』小諸城は「穴城」と呼ばれており、城下町よりも低い場所に位置する。この付近の地質は浅間山の火山灰で ある為、千曲川から崩れやすい断崖が何本も切れ込んでおり(田切り地形)これが天然の堀となっている。 そのため城下町方面(城の東側)が一番弱いため、いくつもの郭を配置していた。しかし、現在は市街地と なってしまっている為、二の丸より東側の遺構はほとんど消滅。唯一大手門とそれに続く石垣が残るのみである。
![]() ![]() 【左上】本丸中央にある懐古神社 本丸は高さ8m程の石塁に囲まれており、思ったよりこぢんまりとしている。 【右上】神社前にある鏡石 山本勘助が使用していたという伝説がある・・・ ![]() ![]() 【左上】黒門橋 南谷と北谷を結ぶ堀切で当時は架け外し自在の算盤橋がかかっていた。これにより 本丸のある部分は周囲を深さ20mはあるだろう南、北谷と10m程の堀切により切り離されている。 【右上】黒門跡 この石塁の中が本丸 黒門は黒門橋を渡った所に構えていた。この門は明治時代に払い下げられ 現在は市内の正眼院の山門となっている。 ![]() ![]() ![]() 【左上】本丸北西隅にある天守台跡 ここには三層天守閣が建っていたが、寛永3年(1626)に落雷で焼失。 本丸石塁の周囲は帯郭状になっており、そこから撮影。西側が馬場となっている。 【中上】馬場 この先西側は西谷をはさんで南北に細長い大平山があり、その先は千曲川が流れ断崖となる。 【右上】武器庫 本丸の北に位置する。文化14年(1817)に建てられたものが明治期に払い下げで東京へ移築された。 これは復元再建されたもの。 ![]() ![]() 【左上】不開門 城の北西隅にあり搦め手口になる。ここから千曲川の方へと行く事ができる。 【右上】水の手展望台から千曲川を眺める 搦め手口のすぐ上にこの展望台があり千曲川の風景がきれいだ。 ![]() ![]() ![]() 【左上】北丸 大手道を挟んで南側は南丸。北丸には現在弓道場がある。 【中上】二の丸 ここは信玄以前の時代に白鶴城があった。関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠が上田の真田父子に 阻まれて二十数日をここで逗留した為、関ヶ原の戦いに間に合わず、家康の機嫌を損ねた。 【右上】二の門跡 本丸側より見た所で、右側の石垣上が南丸、左側の石垣上が二の丸になる。大手道は常に 両側から見下ろされる形となり、防御しやすくなっている。 ![]() ![]() 三の門 現在の門は明和2年(1765)に再建されたもの。当初の門は元和元年(1615)に 建てられたが寛保2年(1742)の大洪水で流失。 現在ここから内部が懐古園として保存されている。 ![]() ![]() 大手門 慶長17年(1612)の建立といわれる。三の丸の門に当たるが三の丸は現在原型をとどめていない。 わずかにこの大手門とそれに続く石垣が残るのみである。当時としては珍しい瓦葺きの門で あったため「瓦門」とも言われる。 この門は明治期に民有となり、門扉を取り払い料亭「大手館」や小諸義塾の教室として 使われたりしていた。 そのため門の出入り口は改築され、門というより古民家という感じである。しかし、かなりの大型城門で あり必見の門だ。 ![]() ![]() ![]() 【左上】旧足柄門 足柄門は三の丸の門で大手門の西に位置していた。払い下げられて現在は市内荒町の光岳寺の門である。 【中上】旧黒門 黒門は本丸の入り口にあった門である。こちらも払い下げられて現在は市内八満の正眼寺 の門となっている。 【右上】小諸宿本陣母屋 18世紀から19世紀初頭の建築と推定されている。明治期に佐久の桃源院に 移築されていたが、桃源院の寄贈によりこの地に移築復元した。 〜大手門保存修理前 内部見学会〜〜2005年1月30日〜小諸市では大手門の解体修理を今年2月初旬から平成19年まで行なう。 それに伴い修理前に内部の見学会が行われた。 改修によって明治期の改築部分とそれ以前の部分を明確に調査し、 建築資材はできる限り現在の物を再利用して建造当時の姿に戻す計画との事。 ![]() ![]() ![]() 【上】一階部分 この部分は明治期に料亭として増築された部分で、一階は玄関口といったところ。 畳が内部に敷いてあり、奥に階段がある。南窓側は炊事場の一部であろうか。 ![]() ![]() 【左】二階部分 ここも増築部分で、変形8畳ほどの広さだろうか。床の間や押入などが ついている。門の部分の柱はかなり太く、その内側に窓がつけられている。 門の内部に一階、二階部分があるため、天井はかなり低く180pほど。 ![]() ![]() ![]() 【上】三階部分 ここが実際の大手門内部といったところ。だが、畳敷きや部屋内部に建つ柱など 料亭時代に改装されたものと思われるとの事。堀こたつの部分もあった。 階段もその時に造られたと思われ、門として使用された場合は東側の外から直接ここに入ったのでは ないかということである。左上写真奥がその扉で、手前が階段。 解体修理の際にはこのような部分も、解明されるであろう。 ![]() 【左】大手門南東側 この石段を登ると直接東側の戸から内部に入る事ができる。 ![]() ![]() |