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〜鞍骨城〜![]() 鞍骨城は清野氏の要害とされているが、文献史料上での裏付けはない。清野氏は武田氏が進攻する以前は村上氏に属し、 代官九家の上座に列したという。 しかし、武田方に当地の地侍中最も早く出仕したことが『高白斎記』天文19年(1550)の条によってわかり、それは村上氏の 葛尾城落城の三年前であった。〔『大系』〕 武田氏滅亡後、鞍骨城は近世の編纂物『景勝一代略記』によると、天正10年(1982)7月に上杉景勝が「清野くらかけ山の ふもと、赤坂と云所ニ御馬を立てられ、(中略)くらかけ山へ御あがり」〔『信濃史料』〕との記録があり、 景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記載されている。 なお清野氏は武田氏滅亡後は越後の上杉景勝に属し、景勝の会津転封とともに、この地を去った。 ![]() 【上】尼巌山中腹より 鞍骨城・天城城・妻女山方面 【左】赤沢城より 唐崎山城方面 尼巌城は 尼巌山山頂にある。海津城を挟んで西側には 竹山城や鞍骨山山頂に位置する鞍骨城、その北方尾根続きに天城城・ 妻女山がある。 また、天城城から分かれる西支尾根先端には鷲尾城・ 唐崎山城がある。 ![]() ![]() ![]() 【左上】妻女山より鞍骨城 同じ尾根上といっても、3q以上離れている。 【中上】二本松峠 天城城を過ぎると尾根上を清野と倉科を結ぶ道が直交しており、ここを二本松峠と称している。 【右上】二重堀切 城域北端部にあたり、ここから主郭にかけてやせ尾根上に郭、堀切が配置されている。 ![]() ![]() ![]() 【左上】北西方面の眺め 樹木に遮られてしまっているが、海津城方向になる。写真では眼下に金井山城と寺尾城の半島状に突き出た 尾根が見える。 【中上】主郭方面 二重堀切を越えた後は約100m程、緩やかな登り坂で尾根の両サイドに細く帯び郭が付いている。 【右上】堀切 この堀切を越えると主郭までイッキに高度を上げていく。次第に郭の周囲に石積みが確認できるようになる。 ![]() ![]() ![]() 【左上】主郭の石積み 主郭とその北側の郭は石積みの規模が大きい。主郭の虎口、虎口受けの郭が南側にあり、その周囲は 特に固められている。 【中上】主郭 周囲には土塁が確認でき、特に背後の南東側に規模の大きい土塁が残る。 【右上】主郭より南東側尾根 未確認だが背後には堀切が2条あるらしい。 この後、熊に遭遇したため、南東背後の尾根と南方鷲尾城方面の尾根には足を踏み入れることができずに退却・・・・ この付近は熊遭遇率が高い所のようなので、注意してください。 〜天城城〜天城城は妻女山へ続く北尾根、唐崎山城への西尾根、鷲尾城への南西尾根、鞍骨城への南東尾根が集結する天城山山頂に 位置する。また、すぐ南には清野と倉科を結ぶ二本松峠が通るという要衝の地である。『天城城要図』![]() ![]() ![]() 【左上】城域南側 二本松峠から約100m北側にやや広い空間がある。その西側隅に高くなった小郭状の遺構があり、 竪堀が1条ある。この下には唐崎山城・鷲尾城と鞍骨城とを結ぶ道が通っている。 【中上】南側堀切 広い空間から城域へ登る途中にある堀切。ここを過ぎると山頂まで削平地がつづく。 【右上】主郭 山頂部分には石室が崩壊して露出してしまっている古墳が残る。かなり藪がひどい状態で、削平地部分も狭い。北西側に 堀切が通っているが、堀内の側面を石積みで固めている部分が見られる。 ![]() 【左】西尾根の竪堀(堀切?) 唐崎山城方面への尾根には竪堀が確認できる。堀切が埋まったものかもしれない。 主郭の直下にも西側に堀切があるが、それほど防御が厳重という感じではない。 その他にも未確認だが鷲尾城へ通じる尾根にも堀切があるという。 〜感想〜 今回は妻女山から天城城経由で鞍骨城へ行くルートを往復した。鞍骨城では主郭を中心として石積みが多く確認でき、虎口部分も 明確に残っている。尾根末端部にある竹山城、鷲尾城でも規模の大きい石積みが確認できるが、唐崎山城では使用されていない。 天城城は四方の尾根がここに集中しているために、築かれたと思われるが、防御としての普請はそれほど行われていない。だが、 南側には広大な削平地があり、かなりの人数を収容することができる。まさしく攻めるための拠点といった感じである。 長野県内には尾根先端部、支尾根が集まってくる部分、さらにそのはるか上部に城を築くパターンが他にも見られるが、 これだけの規模を誇るものはそう無いと思う。これをネットワーク化して動かすとなれば、その主体となる勢力は武田氏、 上杉景勝あたりに限られる。現在の状態はおそらく景勝時代のものなのではないだろうか。
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