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![]() 黒川城に直接関係する史料はない。 天正10年(1582)武田氏滅亡後、小谷筋には北から上杉景勝が、南からは木曽義昌、その後小笠原貞慶が侵攻してきた。 同年11月2日付、西方房家・小谷衆大所豊後守宛ての景勝書状2通(景勝公御書16・『上』2593)・(山田氏所蔵・『上』2594)では、「千国之城」を攻略したことを賞している。この「千国之城」は黒川館もしくは黒川城の事を示している可能性が高い。 地誌関係の諸本によると、以下のようなことが記されている。 「信府統記」の「千国黒川ノ古城地」項では、山麓の黒川館を説明し、「城主栗原道仲」としている。 明治初期の官撰地誌編纂事業による調査記録『長野縣町村誌』においても黒川館の説明があり、伝承によると菅原朝臣堀金安芸守政氏の嫡子、千国丹波守利秀が拠り、後に栗原河内守資長が拠る、としている。 『北安曇郡志』(大正12年〈1923〉刊行)黒川城の項も同様に黒川館の大きさに関する説明の後、「武田氏の臣栗田刑部道仲の居城なりと云ふ」と書かれている。栗田というのは「信府統記」の「栗原」の誤伝承または誤記か。 『大系』黒川城の項では『北安曇郡志』『長野県町村誌』を折衷した説明となっており、「武田氏の家臣栗田刑部道仲の居城であったが、武田氏滅亡後、千国丹波守利秀が対岸の千国城から移り、麓に居館を構えたという」と説明している。 いずれにしても、『大系』以外は黒川館の説明であり、その内容は伝承の域を出ない。 (千国地域全体の歴史・千国丹波守利秀に関しては千国城のページ参照) 今後、黒川館のページでさらに検討を加えてみたい。 『上越(文書番号)』…『上越市史』別編上杉氏文書集 【上】黒川館からみた黒川城 黒川城は黒川館から北東方向、直線では1kmにも満たない位置だが、比高は500m近くにもなる。 『黒川城縄張図』―立地― 黒川城は独立峰の山頂に位置し、西側麓に姫川、東側麓に横根沢川が南北に流れる。横根沢川が姫川へ合流する所に宮本城がある。南側鞍部に真木集落へ向かう道が通る。 また、姫川対岸には千国城・立屋の城峯砦が目視できる位置にある(現在は森林で見通しが利かない)。 ―アクセスルート―
国道148号、南小谷駅の南側踏切を渡って右折、黒川集落方面へ。約600m先左側に写真の坂を登って行く登山道がある。途中まで車で行ける道幅だが、駐車スペースがないのでここで車を置いて徒歩がベスト。 (注)写真は黒川集落側から撮影しているので、南小谷駅方面から来ると写真奥から来ることになる。 【右上】登山道分岐点 徒歩で約10分登ると左右の分岐があるので右へ。車止めのところに真木集落への案内板がある。 ![]() 木柱に消えかかった文字で「四辻」と書かれた峠に出る。まっすぐ進むと真木へ。左側の尾根を登っていくと黒川城だが、道は整備されていないので、尾根上を北へ進んでいく。 駐車スペースから四辻まで約35分、ここから主郭まで約25分。登りは合計約1時間となる。 ―現況―
「土橋」と書かれた小さな案内板がある。 【右上】同堀切(上から) A 堀切東側は谷へ落ちることなく、そのまま横堀・腰郭状になっている。
この部分は腰郭状になっているが、主郭東側〜北〜西側にかけては外側に土塁がわずかに残っており、横堀が主郭を囲んでいる。 【右上】主郭下 東側 C 途中、横堀から竪堀が放射状に入っているのがわずかに確認できる。
「村指定史跡 黒川城」と書かれたプレートがあるのみ。南北約18m、東西約25mの楕円形をしており、東側がやや高い。 【右上】主郭から北側下部 E 主郭北西下の部分は横堀が一旦途切れている。破壊されてしまったのかどうか不明。
不整形な削平地を過ぎると堀切が1条通っている。 【右上】主郭北側尾根 G 主郭の北側は堀切を過ぎると普請された形跡はなく、ほぼ同高度で幅の広い尾根が続いているため防御性は低い。
南側は主郭に向けて高度がイッキに上がっているが、北側はそれほどでもないことがわかる。 【右上】姫川対岸から黒川城・黒川館方面 千国城の麓、塩の道からの眺め。 ―感想― 主郭を頂点としてそのまわりに横堀を廻らし、放射状に竪堀が入っている。これに似た構造は三日市場城・武居城、甲斐でも白山城などにみられ、武田氏の縄張の影響を受けている可能性がある。しかし、黒川城は圧倒的に高い場所にあるせいか、普請の規模は比較的小さい。 なぜ、千国道(塩の道)の対岸で、なおかつ黒川館から比高500m近くもあるこの場所に当城が築かれたのか。 宮坂氏は北方4.5km先の平倉城を直視できる位置にあることに注目し、この谷中の重要な展望台だったとする。 また、三島氏は黒川城が黒川館から離れすぎているため、詰城とみられてきたこれまでの通説に疑問を呈している。氏は宮本で千国道から分岐した道が、伊折―黒川城の尾根―真木―青鬼と進み、柄山峠を越えて鬼無里、善光寺平に至るルートを想定し、街道封鎖の役割を担っていたとする。 城域の東西が急斜面で麓に川が流れている関係上、当時、姫川右岸を南北に往来する道が黒川城域を通っていた可能性は十分考えられる。なおかつ、周辺一帯を見渡せる位置にあることから築城されたのではないか。 また、黒川館の詰城という通説は、位置的にも近世以来の地誌の記述からしても、三島氏の言うように再考の余地があると思われる。
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